電源開発は国鉄に会津線の只見までの早期延伸を求めたが、田子倉ダム・発電所の工事が終了すれば貨物輸送は激減することが明らかだ。只見川の上流域は当時でも“秘境”とされ、旅客輸送も多くは望めないローカル線の延伸に、国鉄は難色を示した。

 それでも電源開発は「長期間確実な輸送を期するためには鉄道による以外に方法なし」(『田子倉発電所建設用専用鉄道工事誌』)として、自社による会津川口~只見~田子倉(2013年に廃止された、のちの只見線田子倉駅とは異なるダム直下)間の工事専用鉄道建設を決定する。ただし、会津川口~只見間を「将来、国鉄が適当な価格で買い上げるなら」という条件を付けた。

 国鉄側は渋ったものの、のちの関西電力黒部ダム建設の際にも浮上した、戦後の国家的な電力不足を巨大ダムによる水力発電の充実で解消したいとする政府の意向もあり、1956年2月に「専用鉄道を田子倉ダム・発電所の完成後、国鉄の営業路線に編入する」との閣議決定がなされ、3月には電源開発と国鉄との間に工事の委託契約が結ばれた。着工は5月、完成予定は翌57年12月、工期は1年8カ月とされた。

 国鉄への編入を見据え、専用鉄道は会津川口までの既設路線と同じ規格で建設された。35カ所の橋梁と6カ所のトンネルが設けられたが、橋梁の多くは2011年の豪雨で、壊滅的な被害を受けることになる。実際、専用鉄道着工直後の1956年7月には豪雨、冬には豪雪が現場を襲っている。

■飯田線や士幌線のダム水没区間から資材転用

 会津川口から田子倉に向けて延伸された線路は、第五只見川橋梁で本流を左岸(上流から見て左側)へ渡る。この橋梁は2011年の豪雨で、4連あったプレートガーダーのうち1連が流出している。本名(ほんな)を過ぎると、再び右岸へ戻る第六只見川橋梁が架かる。ここも4連のプレートガーダーのうち2連と、中央のワーレントラス1基が流出した。会津横田~会津大塩間の第七只見川橋梁も、プレートガーダー5連中1連とトラス1基が流出している。

 第八只見川橋梁は本流の蛇行部分をまたぐための橋で、本流を対岸へは渡らない。そのため盛り土の崩壊などはあったものの、流出をまぬかれて残る2基のトラスは、1955年に佐久間ダム(静岡県)の建設に伴って新線に切り替えられた飯田線中部天竜~佐久間間の旧天竜川橋梁を転用・移設したものだとされる。

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「只見中線でなく、只見田中線だ」