1938年9月17日、日中戦争の最前線で戦闘の合間に手紙を書く兵士たち (c)朝日新聞社
1938年9月17日、日中戦争の最前線で戦闘の合間に手紙を書く兵士たち (c)朝日新聞社
1953年7月25日、アッツ島戦死者の遺骨を抱えて帰国した遺族団 (c)朝日新聞社
1953年7月25日、アッツ島戦死者の遺骨を抱えて帰国した遺族団 (c)朝日新聞社
1942年8月1日、「軍神」の遺影を見つめる中学校の生徒たち (c)朝日新聞社
1942年8月1日、「軍神」の遺影を見つめる中学校の生徒たち (c)朝日新聞社

 戦争体験を直接聞く機会が、ますます失われていくなか、日中戦争から太平洋戦争にかけての兵たちと家族・故郷の交信の記録を読み解いた、藤井忠俊著『兵たちの戦争――手紙・日記・体験記を読み解く』(朝日文庫)が出版された。手紙に書かれていることがすべてではない。厳しい検閲があるなか、真実はどこまで伝えることができたのか。また、夫や息子からの手紙で、故郷の家族は何を知ることができたのか。ベストセラー『日本軍兵士』を書いた吉田裕氏は、藤井氏の「読み解き」について、こう語る。

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 まず気が付くのは歴史的事象を常に多面的に分析しようとする姿勢である。日本における徴兵制の歴史に関する分析を例にとると、市民革命期の国民軍を経験することなく、欧米諸国をモデルにした徴兵制をいわば上から無理やり導入したため、それは民衆の支持を獲得できなかった。しかし、その一方で、兵事行政の整備、村と軍隊との結びつきの強化、対外戦争によるナショナリズムの高揚などによって、「国家―軍隊―ムラの関係が明治期を通じてシステムとして完成してい」く。その結果、入営する青年を送別する宴は村の「祝い」の場となり、出征する兵士を送る一連のイベントは「赤紙の祭」となるが、他方で徴兵逃れや弾除け祈願の風習は民衆生活の中に残り続ける。著者のいう「徴兵忌避願望と入営祝いの二面性」である。

 史料への向かい合い方の問題では、「読み解く」という姿勢への一貫したこだわりが際立っている。ここでは手紙を例にとろう。遺書の場合でいえば、「兵たちが書いたという面と、書かされたという面の両面をもっている」ことに対する留意、普通の手紙の場合でも、相手に対して伝えたいことと伝えたくないこと、書いてよいこととよくないこととの自制と規制、多用される慣用句によってカムフラージュされた真意などを見極めること、氏によれば、それが「読み解く」という能力である。また、「一口でいえば、それは技術であり熟練だ」ともいう。「出征を見る」と題された小論(『岩波講座 アジア・太平洋戦争5 月報5』岩波書店、2006年)では、より踏み込んで次のように書いている。

「私は戦争体験をそのまま資料にするよりも資料を見る目の中にすえておいた。資料の検証や批判にあたって、戦争体験がたしかな基準を与えてくれたように思う。それは個々の体験の偏りに組〔ママ〕する意味ではない。寡黙な表現でも、体験の中にかくされた人間としての思いや動きがわかるからである。その目で資料を読むことができるように思った」

 少しわかりづらいところがあるが、多くの人の様々な戦争体験に繰り返し触れることで、「読み解く」能力を身に着けていったということだろう。その能力は本書で存分に発揮されている。手紙の分析の中でもとりわけ強い印象を残すのは、沖縄で戦死した曽我章一の遺書である。遺書は妻宛てのものと両親宛てのものがある。両親宛てのものは前段で戦死するのは軍人の本分であり、「東洋平和」と天皇陛下のために死んでゆく決意が述べられている。それに対して後段では、妻を離縁して家から出さないこと、一時金、保険金、扶助料(遺族年金)は妻のものであることを両親に懇願している。著者は前段の「きまり文句」は、そのまま受け取るべきではなく、「名誉の戦死」を背負うことによって自己の発言力を強化し、家の実権を握る両親に後段の遺言を守らせるために書かれたものだとする。事実、日中戦争以降は、戦死者の遺族に対して与えられる一時金や扶助料をめぐる家庭内のトラブルが多発していた。民法上もまた実際上も戸主が強い権限を持っていたため、戦死者の父が息子の妻を離別して受給資格を奪うことができたからである(拙稿「アジア・太平洋戦争の戦場と兵士」、倉沢愛子ほか編『岩波講座 アジア・太平洋戦争5』岩波書店、2006年)。こうした歴史的文脈の中に曽我の遺書を置いてみると著者の分析の鋭さがよく理解できる。

 誰宛てに手紙を書いているかという問題の分析も興味深い。兵士は何よりも母に対する思いが強い。それにもかかわらず、「農民兵の場合、母宛の内容は、父宛の手紙の中に書きこまれている」。家父長制の下では家庭内における女性の地位が低いからである。そうした状況の中で、召集された農村出身の兵士たちの中には、曽我のように両親と同居する妻宛てにもあえて手紙を送り、「遺言の中心に妻をすえている」人々がいた。そのことは、「非人間的な戦争のさなかにありながら、家の構造に変化をもたらす一つの要因になったのではないかという仮説すら立てうる」と著者は書いている。こうした行為が戦後における旧い家制度の崩壊につながったとする仮説である。本書に導かれるようにして「アジア・太平洋戦争の戦場と兵士」を書いた私は、この仮説の正しさをあらためて実感している。

 最後にもう一つだけ指摘しておきたいのは、筆者は手紙、日記、手記などを冷静に読み解きつつ、常に兵士たちの傍らに寄り添うような形で本書を書いていることである。兵士たちの生と死に関して、「やりきれなさと悲しさ」、「やるせない気持ち」、「やはりあわれ」、「歯ぎしりするほどの哀れさ」といった表現が繰り返し出てくることは、そのことをよく示している。お会いしたのは一度だけだと記憶しているが、別れ際に最近の研究者には無残な死を遂げた兵士たちの心情に対する共感や哀惜の念が欠けているのではないか、と話されたことを思い出す。遺言として受け止めたい。(歴史学者・吉田裕)