それを聞いて、綾子さんも思い出したことがありました。幼稚園の頃、園庭で一緒に遊んでいた友達が転んでけがをしてしまったことがあり、その子は先生に「綾子ちゃんが押した」と言いました。綾子さんがどんなに否定してもわかってもらえず、先生にも親にも「謝りなさい」と強制されたそうです。その時に、人がうそを付くということと、自分にとっての真実を誰も信じない、という2つに対する混乱(パニック)を感じていたそうです。

 そんな話をしたことを契機に、次第にお二人は、内面に起こっていることと、外に現れる行動のギャップに意識が向くようになり、それぞれの行動パターンが少しずつ変化していきました。

 千日手自体が悪いわけでもありません。違う夫婦のパターンをご紹介しましょう。

 玲美さん(20代後半、派遣事務職)は、子どものころから、自分が思った通りにならないとき、イラっとしてしまうことを自覚しています。この間も、夫に帰りにアジを買ってきてと言ったのに、サバを買ってこられて

「アジって言ったじゃない、なんでサバなんか買ってくるのよ!」

と頭ごなしに言ってしまいました。一言言ってしまうと、そのあととめどもなく言葉が口を衝いて出てきます。夫は、じっと玲美さんの顔を見て話を聞き続けます。今回は3分ぐらいでしたが、長い時には何時間も続く話を聞き続けてくれます。そして一段落したところで、夫は

料理の準備が台無しになっちゃったね」

と言いました。玲美さんはなんか力が抜けて、何で自分はこんなことで、こんなに怒っていたんだろうと我に返るような感じがしました。夫は、

「今日は、料理をやめて焼き肉食べに行こうよ」

と言います。これがいつものパターンです。

 夫は玲美さんの気がすむまでずっと黙って話を聞いて、ちょっと一言言って、最後には食べ物(ほとんどの場合は焼き肉)で釣るのです。癪といえばそうなのですが、またか、と思って、思わず笑って乗ってしまいました。大したことを言ってくれるわけではないのですが、しいていえば「ちょっと一言」のタイミングが絶妙なのです。

 これも千日手ですが、玲美さんはこういうことがあるたびに、この人が夫で本当に幸せだな、と感じるのです。自分のイラつきやすい性格を受け入れてもらえている感じがするのです。

 もちろん、イラっとして言い過ぎてしまうことは無いほうがいいでしょうし、トラブルが起こらない方がいいのかもしれません。しかし夫婦にトラブルは不可避です。好ましくないことが起こっても、最終的にこの人と一緒にいれて幸せ、と感られたらいいですよね。(文/西澤寿樹)

※事例は事実をもとに再構成しています

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西澤寿樹

西澤寿樹

西澤寿樹(にしざわ・としき)/1964年、長野県生まれ。臨床心理士、カウンセラー。女性と夫婦のためのカウンセリングルーム「@はあと・くりにっく」(東京・渋谷)で多くのカップルから相談を受ける。経営者、医療関係者、アーティスト等のクライアントを多く抱える。 慶應義塾大学経営管理研究科修士課程修了、青山学院大学大学院文学研究科心理学専攻博士後期課程単位取得退学。戦略コンサルティング会社、証券会社勤務を経て現職

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