『絶品!シンガポールご飯』著者で映画プロデューサーの橘豊氏は、「シンガポールのローカルフード事情はかなり厳しい」と表情を曇らせる。

「私は8歳から19歳までシンガポールと香港で育ったのですが、ここ数年、特にシンガポールの昔ながらの飲食店が置かれている状況は非常に深刻なものです。その最大の原因は人手不足。とにかく後継者がおらず、歴史のあるいい店がどんどん姿を消しています。あの国は金融などで急激に経済成長を遂げ、裕福な暮らしをする人も増えています。その反動として、若者は稼げない仕事をしたがらないし、給料の安い飲食店なんかでは働きたがらない。結果として、みんなローカルフードは大好きなのに、なり手がいないというねじれ現象が起きています」(橘氏)

■急成長の影に「絶メシ」あり 格差が加速させる町のメシ屋の後継者問題

 格差の激しいシンガポール社会。その程度は、日本とは比べものにならない。ビジネスで成功を収めた若者が高級な店で派手に騒ぎ、高層ホテル「マリーナ・ベイ・サンズ」の屋上プールから悠々と街を見下ろす。その眼下に広がる街の隅っこに庶民が暮らす一角があり、そこをセレブがハンドルを握るランボルギーニが轟音を残して走り抜ける――。

「これほどまでに日常生活で格差を見せつけられれば、若者だってどうにかして稼げる仕事に就きたいだろうし、給料の少ないレストランで働こうとか、屋台をやろうなんて思わないですよね。そうした急激な経済成長が、シンガポールの人々が大切にしている食文化を少しずつ削っているのは皮肉なことです」(橘氏)

 マレー半島に残る独自の文化「プラナカン」を代表する食べ物のひとつに「クエ(kueh)」というがある。昔はどこにでも売っている“国民食”ともいえる餅だったが、今、クエを売る店がシンガポールの町から姿を消しつつあるという。

「クエは手間がかかる上に、1個1ドル30セントと安い値段で売られています。これでも昔に比べて値上がりしましたが、だからといって5ドルとか8ドルとかで売れるものでもないし、そんなにたくさん食べるようなものでもありません。だからクエを売る店がなくなってしまい、クエが食えない……まさに絶メシになりつつあります。クエは極端な例として、町中を見渡せば屋台はまだまだたくさんあるし、ローカルフードを売りにしているレストランも健在です。お金持ちも庶民も、屋台は大好きですからね。ただ、いつまでこの状態が続くかはわかりません。ちなみに私はシンガポールだけでなく、米ロスアンゼルスなどもよく行くのですが、やはりLAでも昔ながらの個人経営系のレストランがどんどん潰れています。ユダヤ人ファミリーが営んでいたユダヤ料理屋も、イタリア移民が経営していたイタリアンも、気づいたらなくなっていましたしね……。絶メシって、アジアだけの問題じゃないんですよ」(橘氏)

 時代に取り残された昔ながらの町のレストラン。愛されているのに後継者がいないという世界共通のジレンマを抱え、今日もあなたの町のどこかで営業をしている。食べられなくなってから、その貴重さ、尊さに気づいても遅いのだ。