なぜなら、ビーイングはすでにあるものをヒントにして似て非なるものを作り出すのが得意だからだ。サザンオールスターズからTUBEを、BOØWYからT‐BOLANを、のちには宇多田ヒカルから倉木麻衣を、というように。そこには長戸のこんな哲学があった。昭和58年、ビーイング設立から4年半後の発言だ。

「物事をより展開するときに、すべてを否定して同じものをつくったら、まったく違うものができるでしょう」(『よい子の歌謡曲』13号)

 ここでいう「すべて」とは「最大の武器」とか「秘められた本質」といった意味だろう。坂井は「露出」を避けただけでなく、森高が当初かもしだしていた「人工的な多幸感」とはウラハラの「ナチュラルなのに薄幸な感じ」をどことなく漂わせていた。その後、森高が妻となり母となり、坂井がああいう最期を迎えたことで、両者は似て非なるものという印象がいっそう強まることになる。

 ただ、1990年代という区切りでいえば、坂井泉水は最も多くCDが売れた女性歌手だ。「最強の二番手」を超えた「真の女王」でもあったのである。

■謎の死を遂げたテレサ・テン

 さて、彼女が世に出た頃、テレサ・テンは不遇な日々をすごしていた。台湾出身で中国の民主化運動を支援していたため、平成元年に起きた天安門事件に深いショックを受け、パリに移住。恋におちた14歳年下のフランス人男性と暮らしていたものの、CDは売れなくなり、体調もすぐれなくなった。

 やがて、平成7年の5月8日、静養先のタイで急逝(享年42)。死因は持病の喘息だったが、中国による謀殺説も取り沙汰された。警察が自殺を疑ったという坂井と同様、謎めいた死だったわけだ。

 生前最後のシングルは、2年前に発表された「あなたと共に生きてゆく」。作詞は坂井泉水(作曲・織田哲郎)である。タイアップの化粧品CMを制作した会社の意向でこのコンビになったとされるが、坂井はまだデビュー3年目で、他のアーティストへの詞の提供は初めてだった。しかも内容は、テレサが得意とし、デビュー前の坂井もよく歌っていた不倫ソングではなく、ハッピーな結婚ソング。両者がともに未婚のまま亡くなったことを思うと、なんともいえない気持ちにさせられる。

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「ドレス、着てみたいな」