撮影/木寺紀雄
撮影/木寺紀雄

 読者にとっては待望の5年ぶりの長編小説『椿宿の辺りに』を書かれた梨木香歩さん。今回は「コミカルで軽快、重くて深遠」な小説で、三十肩と鬱が家の治水とからんで、自然、人間の体、こころの入り組んだ「痛み」とは何かという問いを投げかける物語です。

 著者の梨木さんが本書について「一冊の本」(朝日新聞出版)にご寄稿くださったエッセイを、今回は特別に公開します。

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 もう今ではその切実さから遠いところに来てしまったが、いわゆる四十肩、五十肩の痛みで七転八倒していた時期があった。

 今回上梓した『椿宿の辺りに』の主人公のように、私のそれも、そもそも腱鞘炎から始まったことだ、という確信がある(医者の診立ては違うようだけれど)。当時は、あの痛みを忘れるときがくるなんて、思いもしなかった。漢方薬やペインクリニック、いろいろとやってみたが治らない。痛みの合間に息をしている、というような状態だった。

 どう対処すればいいのか、いつまで我慢すればいいのか、経験者の見解が聞きたく、とりあえず、身近でそれに悩んでいたことのある、母に訊(たず)ねてみた。ところが母の返事がおぼつかない。そういえば、そうだったような気がする……と、はっきりしないのだ。私は――大げさに言えば――唖然とした。腕が上がらない、上がらない、と暗い顔をして呻いていた母を、はっきりと覚えていたからだ。それも結構な長い間。喉元過ぎれば……というけれど、あんなに痛がっていた記憶が、そんなに簡単に忘却の彼方に去ってしまうものだろうか。しかし去ってしまうものなのらしい。

『椿宿の辺りに』は、連載途中、私事による休載期間が挟まれ、結果的に連載期間が大幅に長くなってしまった作品だった。連載開始前後にリアルタイムで患っていたせいもあり、主人公の痛みは、ほぼそのときの私の痛みの描写である。今回上梓にあたって、だいぶ以前に書いたその場面を読み返し、母ではないけれど、そういえば、そうだった、という思いを何度もした。喉元過ぎれば、は、本当なのだ。

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