「レベルの高い選手をA代表に入れるというのは当たり前のこと。ただ、建英の場合はようやくJ1でフル稼働できるフィジカルの強さが身についたところ。世界トップレベルの大会にいきなり出すのはケガのリスクが高い」とアンダーカテゴリーのあるスタッフも懸念を示していたが、そこは見逃せない点だ。

 もしも久保がコパアメリカで大ケガをしてしまったら、近未来のバルセロナ復帰どころか、欧州移籍さえも叶わなくなるかもしれない。その不安要素を加味すると、やはり「年代別代表からしっかりと国際経験を蓄積させていく」というやり方がベストなのではないか。

 10代の未来あるスターがA代表と年代別代表を掛け持ちし、ケガやコンディション不良に陥った例は皆無ではない。

 その最たるものが99年7月の2000年シドニー五輪アジア1次予選・フィリピン戦で左膝靱帯断裂の大ケガを負った小野伸二だ。彼は98年のプロ入り直後から浦和レッズでレギュラーに定着し、すぐさま98年フランスワールドカップに出場。その後はU-19代表として1999年ワールドユースアジア最終予選(チェンマイ)に出場し、フィリップ・トルシエ監督体制で発足したばかりのU-21日本代表の活動にも参戦した。

 続く99年はワールドユース(ナイジェリア)で準優勝し、直後にはU-22代表としてシドニー五輪予選に出場。全く休む間もなく様々な代表を行ったり来たりして、サッカー人生を左右する負傷をしてしまった。この負傷がなければ、彼のキャリアは違ったものになっていたはずだ。

 小野の1つ年下の市川大祐も似たような状況に陥った。98年はまだ高校3年生だったが、小野とともにフランスワールドカップに帯同。その後はU-19とU-21を掛け持ちし、Jの強度にも適応しなければいけなかった。

 そして99年ワールドユースを間近に控えた2月、オーバートレーニング症候群にかかり、ナイジェリア行きを断念。トルシエに「市川は電車に乗り遅れた」と苦言を呈された挙句、復帰までに長い時間を要した。結局、2002年日韓ワールドカップには間に合い、悲願だった世界の舞台には立ったが、「市川がいれば日本の右サイドは向こう10年は安泰」と評された男がそこから相次ぐケガで苦しむことになった。若い頃から代表とクラブでハードな環境を余儀なくされた選手の身体とメンタルは想像以上に消耗するものなのだろう。

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若手有望株の扱いを熟考せよ