こうしたなか、ある特定の国や地域に毎年行くゼミがある。日本を相対化して、自然とともにある生活を体験させる、などという目的を掲げたものだ。だが、ゼミの内容が、その教員の思想信条と密接に結びついたものであると、やっかいなことが起こりうる。

 ゼミで2~ 3週間ほど海外で生活すると、学生はすっかり洗脳され、ほかのゼミでは体験できないことを体験したと思いこんでしまう。教員の思想信条が浸透し、学生は自分たちの考え方は絶対的に正しいと信じるようになる。ゼミのカルト教団化といっていい。

 教員はゼミと自分の思想信条とは切り離して、できるだけ閉鎖的な空間を作らないようにしなければならない。家と大学を往復するだけの生活を送る学生にとっては、ゼミがどうしても大きな存在になる。キャンパスが周囲から隔絶されたところにあると、なおさら閉ざされた世界になりやすい。

 そうならないようにするため、わたしはゼミに他大学の学生や社会人を参加させたり、自分とは違うタイプの講師を積極的に招いたりした。世の中にはさまざまな考え方がある。自分と違う考えに出合ったとき、自分の意見を表明するとともに、異論や反論にも耳を傾けるのが大切であると学べるからだ。そのほうがはるかに大学らしいと、わたしは思う。

 ゼミで大学教員を絶対化する姿勢が身についてしまうと、社会に出るときに大きな障壁となる。実際、働けばさまざまな考え方にぶつかる。自分の考えを絶対化できるはずもなく、他人の意見を聞きながら問題を解決しなければならない場面が必ず出てくる。

 ゼミに熱心なあまり、学生の就職活動をバカにする教員がいる。会社説明会に出るなとか、就職をやめろとか。わたし自身、企業で働いた経験があり、就職活動のたいへんさは身にしみて感じている。それゆえ自主的に一般教養、漢字、英語などの勉強会を行ってきた。学生は就職活動で何度も落とされると、自分は社会で本当に必要とされているのか不安になる。この不安感は、就職せずに大学院に進学した多くの教員にはなかなか理解されない。

 ほとんどの学生は、卒業後に就職する。教員と同じ人生を歩むわけではない。ゼミでは、そうした個々の学生に対するこまやかな配慮がもっとあって然るべきだ。わたしはそう考えている。

○はら・たけし/1962年生まれ。東京大学大学院法学政治学研究科博士課程中退。山梨学院大学助教授、明治学院大学教授を経て、2016年から現職。明治学院大学名誉教授。著書に『大正天皇』『皇后考』など。