少人数教育というと、「対話型教育」や「密度の濃い教育」などど、そのメリットばかりが注目されがちだが、政治学者で放送大学教授の原武史氏によると、少人数教育(ゼミ)だからこその危険性も少なくないという。AERAムック「大学ランキング2019」(朝日新聞出版)より紹介する。

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 学生が専門のゼミナール(ゼミ)で学ぶ時期が早すぎるのではないか、とわたしは考えている。

 2年生になってすぐにゼミが始まる、あるいは、1年次後半からゼミに入る。そんな大学がいくつかある。

 大学生の知的関心が広がるまでには多くの時間がかかる。入学してさまざまな授業を受けたり、自分なりに興味をもって調べたりすることで、ほんとうに学びたいテーマがすこしずつ見えてくるものだからだ。

 本来なら、学びたいテーマをある程度はっきりさせてから、ゼミを決めるべきである。しかし、よく考えずに「海外に行ける」「仲のいい友人が参加する」などの理由でゼミを選ぶ学生がいる。ゼミは人気投票だと公言し、志望する学生が多いことをまるで吹聴しているように見える教員もいる。

 ゼミを選んでから、違うテーマの勉強をしたくなるケースもあろう。たいていの大学では、制度上他のゼミに移ることができる。だが、ほとんどの学生はゼミを移らない。学生が教員に遠慮してしまうからだ。教員から卒論の指導を受けている場合には、移りたくてもなかなか移りづらいという事情もある。また、教員は教員で、優秀な学生を抱え込もうとしがちだ。

 教員の囲い込み、学生の遠慮という状態は、ゼミを閉ざされた空間にさせかねない。やがて、学生は教員を信奉し、教員に逆らえなくなる。こうなると、教員の学説、主張に対して異論をはさむことができない。

 学問は自由に論じられなければならないし、それができるのが大学である。しかし実際には、学生からその自由が奪われることになる。

 それにはもう一つ理由がある。学生が大学を高校の延長として受け止め、高校までの勉強のように、教員が教える答えが唯一正しいものと受け止めてしまうからだ。なかには、教員の文章と全く見分けのつかない文章で卒業論文を書いてしまう学生までいる。

 いま、一部の大学でグローバル化の一環として、「海外での校外実習」に力を入れるようになった。

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