この話を聞いて、マイケルは顔にケロイドを負ったトイレ掃除の人を仲間だと思ったんだなと感じた。握手は友情を分かち合う行為。よく黒人ラッパーの仲間同士がイエイエイ~とか言いながらハンドシェイクでハイタッチするが、あの感覚だったんじゃないか?と思う。「黒人のミュージックビデオは放送しない」(80年代初期MTV)とか、「黒人を表紙にしたら売り上げが落ちる」(80年代までの音楽雑誌『ローリング・ストーン』)とか、信じられない黒人差別、偏見の中を生きてきたマイケルだ。成功と引き換えにいわれなきバッシングの嵐にも遭った。後に肌が白くなったのも「白人になりたいから脱色している」などと揶揄されたが、本当は尋常性白斑という難病だったのは亡くなった後の検視ではっきりと発表された。何か事が起こってバッシングされる度に、マイケルはアメリカ社会に於いて自らが黒人というマイノリティであることを常に背負わざるをえなかった。だからこそ世の中で虐げられる人、貧しい人、子どもたち、弱者に寄り添い、生きたのがマイケル・ジャクソンなのだろう。

 さて、マイケルは日本を好きだったんだろうか? 『マイケル・ジャクソン来日秘話』には「日本人の目はいつも優しく、こちらを見て話しかけてくれる、それにみな、心がこもってる、こんなに気持ちが楽でいられる国は初めてだ」とマイケルが何度も言っていたとある。またマイケル自身、話し声がとても静かで穏やか、話し方は誰に対しても丁寧なのは田中さん、清水さん共に言っているが、日本人の話し方を好んでいたそうだ。とはいえ、それは特に日本だけに限らず「マイケルはとにかくアメリカに居るのがイヤだったんじゃないか?と思います。特に90年代以降になると、アメリカでマイケルは犯罪者扱い。それがロンドンやパリに行くと熱狂され、日本もそう。温かく迎えてくれますからね」と清水さんは推測する。

 日本と言えばまた、あらゆる意味でイノベーターであったソニーの創始者・盛田昭夫さんをマイケルは尊敬し、87年来日時にはマイケル側からお願いして自宅を訪問。大皿に山盛りの二十世紀梨を一人でぺろりとたいらげた、なんていうエピソードを夫人がコラムに書いている。ちなみに現在のソニー会長である平井一夫さんがまだCBS・ソニーに入社して3年目の頃、マイケルのアルバム『BAD』が完成。マスタリング・テープを当時はハンドキャリーで運ぶのが一番早い安全な方法とされていて、たまたまロサンゼルスにいた平井さんに「すぐに取りに行って持って帰ってきて、成田空港で清水さんに渡して。何があってもマスターテープだけは守ってください」と上司からお達しが下り、平井さんが「パシリとして」音源を運んだのだそう。イッツ・ア・ソニー。マイケルを巡る日本の物語だ。

次のページ
生きていたら今年で還暦を迎えるマイケル