■暴力・ハラスメントにNO!が言える学校へ

 授業力・指導力がなければ殴られても仕方ないという見解。

 暴行を受けた先生を非難する声の背景には、「指導力があるから生徒が荒れない」という教員文化がある。つまり、指導力がないから、生徒が荒れてしまう。暴行を受けるのは、あなたの教育者としての資質がないからと、みなされてしまうのだ。

 仮に、被害に遭った先生の、指導力や授業力が低かったとしよう。そのこと自体は、学校内外の研修等によって改善されるべきことである。だがそれらの能力が低かったからといって、その先生が暴行を受けてよいことにはならない。なぜ能力の高低が、暴行被害の是非と連動して語られなければならないのか。

 冒頭で紹介した「児童・生徒暴力被害者の会」の共同代表を務める久保田紋加さん(仮名)の事案も、福岡市の事案と同じ2017年に起きた。児童館で小学2年男児に背後からバットで頭部を殴られて、現在も片耳が聞こえないという。記者会見で同会は、教育現場において「教員は聖職者」という考え方が根強く、被害を訴えにくい風潮があると訴えかけた(2019年3月25日付、共同通信)。

 殴られるには、真っ当な理由がある――こう考える限り、生徒から教師への暴力はもちろんのこと、教師から生徒への暴力もなくならない。加害者/被害者がだれであっても、暴力で物事を解決しようという態度は問題視されるべきである。消え入りそうな声に、私たちは耳を傾けなければならない。(文/名古屋大学准教授・内田良)