そのことをよく示すのはグリーフケアへの関心の高まりだ。2011年3月11日の東日本大震災と福島原発災害は多くの人々に「死者とともにあること」「ともに悲嘆を生きること」の意義を思い出させてくれた。言うまでもなく、東日本大震災は死に向き合う経験だった。だが、ホスピス運動は死を目前にした人のケアに焦点があるのに対して、ここでは大切な人を喪失した死別の悲しみに暮れる人のケアに焦点がある。前者は1人称の死に力点があったが、後者は二人称の死に力点がある。スピリチュアルケアの範囲が、ターミナルケアからグリーフケアへ広がってきた。

 グリーフケアの目標は「悲嘆(グリーフ)を癒す」ことだろうか。必ずしもそうではない。「ともに悲嘆を生きる」ことだと私は捉えている。大切なもの、尊いものを喪った痛みはかんたんに癒されるものではない。人は死から蘇ってこない。喪われたものは返ってこない。だからこそ、むしろ悲しみをもち続けることが力となる。そして、悲しみを表現することを人は求め、それに共鳴することをも求めるのだ。宗教や芸術のような悲嘆の容れ物は、悲嘆を癒すためにあるのではなく、悲嘆を保ち分かち合い続けるためにこそある。

■宗教者の新たな役割

 東日本大震災以後の新しい動向がもう一つある。それは、宗教者が特定宗教・宗派に関わりがない人のケアに積極的に関わろうとするようになったことである。「宗教者」といえば、聖職者だけを指す用法もあれば、一般信徒まで含める用法もあるが、典型的には伝統仏教の僧侶である。葬儀や法事に携わり檀家とのやりとりが主な活動の形であった僧侶が、災害支援活動やグリーフケアに強い関心をもち、寺や葬祭場の外で活動する機会が増えてきている。

 東日本大震災以後、被災地で行われた「カフェ・デ・モンク」、「行茶」(曹洞宗青年会)などの宗教者によるカフェ活動は被災者からも大いに歓迎された。カフェ・デ・モンクは「お坊さんのカフェ」という意味だが、避難所や仮設住宅などで僧侶がカフェを開き、被災者と交流する場である。この活動を始めた宮城県栗原市の金田諦應住職がウィット豊かに言うように、それは「カフェで文句を言う」場でもある。被災者の多くは、身近な人の死をはじめとする深刻な喪失を胸に抱えている。カフェはそれを分かち合う場となり、おたがいに心を開く場となる。それは死の痛みを自覚する場であるとともに、癒しの場ともなる。

次のページ
グリーフケアとスピリチュアリティ