巨人時代のエリック・ヒルマン投手=1998年2月26日撮影 (c)朝日新聞社
巨人時代のエリック・ヒルマン投手=1998年2月26日撮影 (c)朝日新聞社

 近頃のNPB助っ人事情において、盛んに行われているのが国内球団間の移籍である。以前は巨人の“強奪”が目立っていたが、近年では優良助っ人たちが複数球団を渡り歩く事例もあり、今年もオネルキ・ガルシア(中日阪神)、ブランドン・レアード(日本ハムロッテ)が国内移籍を果たした。すでに日本で実績を残している彼らが、新天地でさらなる成功を手に入れることは、果たしてできるのだろうか。

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 過去の事例を紐解くと、移籍して大成功だった助っ人として有名なのが、ラルフ・ブライアントだ。来日したのは1988年5月、入団したのは中日だった。だが、外国人枠に加えて、自身も変化球に全く対応できずに二軍戦で三振ばかり。だが、一軍未出場のまま6月末に近鉄へ金銭トレードで移籍すると、仰木彬監督の下で大変身。移籍後の出場74試合で34本塁打を放ち、そして翌1989年は西武との天王山での4打数連続本塁打など、リーグ最多の49本塁打を放ってチームのリーグ優勝に大きく貢献した。

 阪神で1991年から4年連続の打率3割以上(1993年は首位打者)をマークしたトーマス・オマリーも、移籍後に歓喜を味わった一人である。1994年のオフに本塁打の少なさを理由にチーム構想から外れて自由契約になると、翌1995年に移籍したヤクルトで打率3割をキープするとともに前年の15本塁打の倍以上となる31本塁打を放ってリーグ優勝の原動力に。さらに日本一にも輝き、リーグMVPと日本シリーズMVPの栄冠を手にした。

 阪神ファンが苦虫を噛み潰したという意味では、ダレル・メイの存在は忘れられないだろう。1998年に来日し、阪神では2年間で計10勝16敗と負け越すとともに当時の野村克也監督への批判などで無期限謹慎処分から退団、自由契約となったが、その翌年の2000年に宿敵・巨人に移籍すると、3完封を含む12勝(7敗、防御率2.95)を挙げてリーグ優勝&日本一に貢献した。

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“失敗”の筆頭として名前が挙がるのが…