2002年日韓ワールドカップの後になると少しずつ海外挑戦者が増え、中村俊輔が24歳、柳沢敦で26歳でイタリアへ渡り、松井大輔も23歳でフランスへ移籍している。松井の場合は2002年 トゥーロン国際大会でベストエレガント賞に輝き、2003年コンフェデレーションズカップ(フランス)でA代表デビューと、フランス繋がりがいくつかあった。加えて2004年アテネ五輪でも活躍したことで高評価を受け、ルマンからのオファーにつながった。

 2000年代半ばまでは代理人が作成したビデオで選手売り込みをするのが一般的だったから、日本人の場合は一部の特定選手しか欧州移籍市場には引っかからなかった。こうした環境も「A代表入りして知名度を上げてから海外に行くもの」という考え方に拍車をかけていたのかもしれない。

 それでも、ジーコジャパンは海外組が急増したチームだった。ただ、2004年中国大会の時は中田と稲本がケガ、小野と高原はアテネ五輪優先となって招集免除となり、欧州組は中村俊輔と川口能活(当時ノアシャラン=デンマーク)、鈴木隆行(当時ヒューステン・ゾルダー=ベルギー)だけ。数こそ少なかったが、3人はそれぞれに存在感を発揮する。

 中村はMVPに輝き、川口は絶体絶命の危機に瀕した準々決勝・ヨルダン戦でのPK戦連続セーブで日本を救った。鈴木もゴールは1点のみだったものの、2トップの一角で奮闘した。海外組偏重のチーム作りを進めたジーコには批判が高まったが、今となれば、その基準は普通だったのかもしれないと感じさせられる。

 それから7年が経った2011年カタール大会は「欧州組中心のチーム」と言うべきスター軍団だった。当時のスタメン11人を振り返ると、MVPを獲得した本田圭佑がCSKAモスクワ(ロシア)、香川真司がドルトムント(ドイツ)、内田篤人がシャルケ(ドイツ)、長友佑都がチェゼーナ(イタリア)と、総勢7人が欧州クラブに所属。大会後には岡崎慎司もシュツットガルト(ドイツ)へ移籍し、長友もインテルにステップアップした。

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本田らは「僕らとは感覚が全然違った」