※写真はイメージです (getty images)
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 一瞬の出来事だった。千葉県内の研修施設で清掃業務の仕事をしていた浦野淳子さん(仮名、当時68歳)は昨年5月、作業中に階段の滑り止めに引っ掛かり、転落した。段差は2段、床までの高さは約30センチ。若い時であれば体勢を立て直すことができたかもしれない。しかし、今となっては難しいことだった。重力に逆らうことはできず、床や壁に激しく顔や体を打ち付けた。歯は転落した時に折れて飛び散り、何本折れたかはわからない。後になって事故現場から回収できたのは3本だけだった。

 急いで救急車で病院に運ばれると、「首のねんざ」と診断された。ふだんから滑りにくい靴を自費で購入して使用するなど、ケガをしないよう注意していたが、事故は「私の不注意だった」と自らを責めた。

 会社側の対応に「何かおかしい」と感じ始めたのは、事故直後からだ。病院から帰宅するまでの間に、会社から自宅に電話があった。そこで言われた言葉は、耳を疑うものだった。浦野さんは言う。

「会社から『今回のケガは、労災ではなくて民間の任意保険で対応させてほしい』と言われました。以前から、この会社は労災を使わせてくれないという話は聞いていましたが……」

 労災であれば休業中の補償があるが、民間の任意保険ではどこまでカバーされるかわかららない。浦野さんは、娘の恵さん(仮名)の力も借りながら会社に労災申請をしようと書類の提供を求めたが、「担当者がいない」「後で電話してほしい」などと言って対応を遅らせようとするばかり。企業としては、労災が認定されると労働基準監督署に事故の内容を報告しなければならない。報告後には企業名が公開され、労基署から調査や行政処分を受ける可能性もある。そのため、民間の保険で事故を処理し、労基署への報告を免れる「労災隠し」をする企業は後を絶たない。

 不審に感じた恵さんは、労基署に直談判して書類をそろえて申請すると、ようやく労災認定がおりた。

 だが、この時期に淳子さんはさらなる苦しみを味わう。淳子さんは、同僚に迷惑をかけ続けたくなかったので、事故から約1カ月後の6月中旬に仕事に復帰。ところが、8月中旬になると急に動けなくなった。再び救急車で病院に運ばれると、実は、首の骨にはヒビが入り、太ももも骨折していたことがわかった。今度は入院せざるをえなかった。

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入院中に退職勧奨をする会社