手術を拒否したモネに対し、主治医シャルル・クテラは散瞳薬を処方した。この治療は水晶体の周りは比較的 透過性が保たれる中心性白内障だったモネに多少の効果があった。

 しかし、細部は見えず、混濁した水晶体の影響で色調は赤黄色く濁ったままである。モネはパレットの絵の具を順序良く並べて健眼時の色調を維持しようとしたが難しくなっていった。1922年、親友の政治家ジョルジュ・クレマンソー(第一次大戦中のフランス首相)の「現代医学に任せたらどうだい」という一言が背中を押した。クレマンソーは政治家になる前は医師でもあったのである。

■光と影の画家

 1923年クテラ医師の執刀で二度に分け、82歳の大画家は濁った水晶体の除去手術を受けた。当時は現代のような優れた眼内レンズはないので、度の強い眼鏡で視力を得るしかない。極端な冷色(それまでの暖色が失われたため)と視野の変形が画家を苦しめた。しかし、翌年にドイツから輸入されたCarl Zeissの最先端の技術を使った眼鏡が、不完全ながら彼の世界を取り戻した。そして86歳で没する直前まで制作に没頭したのだった。

 モネは光と影にとりわけ敏感で、ルーアンの聖堂など同じ場所や睡蓮のように同じ題材を何度も描いている(ゆえに、世界中に美術館に睡蓮の絵があるわけだが)。カナダの眼科医Elliotは、モネが失われていく視力を補うために自己の内面にある記憶をもとに同じ景色を描き続けた、すなわち、「白内障こそが印象派の生みの親」としている。

 モネ以前にも老年となって白内障で視力が衰えたとされている画家にレオナルド・ダ・ヴィンチやレンブラントがいる。だが、壮年期の作品に比べて細部の描写が失われたとはいえ、「印象派」になったわけではない。白内障と手術の経験は晩年のモネの芸術に大きな影を投げたとはいえ、決してそれが創造の源泉ではなく、印象派の創始者としての彼の偉大さはゆるぎないものといえるだろう。

◯早川 智(はやかわ・さとし)
1958年生まれ。日本大学医学部病態病理学系微生物学分野教授。医師。日本大学医学部卒。87年同大学院医学研究科修了。米City of Hope研究所、国立感染症研究所エイズ研究センター客員研究員などを経て、2007年から現職。著書に『戦国武将を診る』(朝日新聞出版)など。

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早川智

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早川智(はやかわ・さとし)/1958年生まれ。日本大学医学部病態病理学系微生物学分野教授。医師。日本大学医学部卒。87年同大学院医学研究科修了。米City of Hope研究所、国立感染症研究所エイズ研究センター客員研究員などを経て、2007年から現職。著書に戦国武将を診る(朝日新聞出版)など

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