だが、騒動に怒り心頭の金田は「中日の人たちが、僕の記録を阻もうとする気持ちは一応わかるが、審判のジャッジだから、ある程度のところで気持ち良く引いてくれるのが、本当のスポーツマンシップではないでしょうか。あの抗議はひどすぎる。僕も記録などはどうでもいいから途中でやめてしまおうとさえ考えた。もう少し気持ちの良いゲームがしたかった」と大記録達成の喜びも半減といったところだった。

 50年8月10日、享栄商(現享栄)を中退した金田は新生球団の国鉄に入団。同23日の広島戦(松山)でリリーフとしてデビューし、10月1日の大洋戦(甲子園)でプロ初勝利を挙げた。

 そして、同6日の西日本戦(後楽園)も、金田は6回まで1失点に抑えるが、3対1で迎えた7回、清原初男に逆転3ランを浴びてしまう。

 ところが、その裏、金田は「自分の失点は自分で取り返す」とばかりに緒方俊明からプロ初本塁打となる同点ソロ。8回、日比野武に一発を浴び、再びリードを許したものの、その裏、2死から福田勇一が右越えに逆転2ランを放ち、国鉄が6対5で勝利。被安打8、奪三振7で完投した金田にプロ2勝目がついた。

 この試合で金田が記録した17歳2カ月での本塁打は、打者も含めて史上最年少記録である。

 10年連続20勝の大記録がかかっていた60年、金田は前年オフの交通事故やシーズン中の胃腸障害などの影響で、19勝目は9月29日の中日戦(後楽園)までずれ込んだ。シーズン終了まで残り5試合。リーチとはいえ、20勝は微妙な状況だった。

 19勝目を4安打完封で飾った金田は、当時「完投した次の日は休ませてもらう」と口癖のように言っていたので、翌30日の中日戦は、4年目の右腕・島谷勇雄がプロ初先発のマウンドに。宇野光雄監督も金田のリリーフは考えていなかった。

 ところが、国鉄が2回に2点を先制すると、金田は指示されてもいないのにブルペンへ。そして、4回裏の国鉄の攻撃が終了すると、当然のようにマウンドに向かおうとした。島谷が5回まで投げきると、リリーフしても勝ち投手になれないからだが、たまたま(?)宇野監督は席を外していた。これでは交代できない。

次のページ
せっかくの快挙も「後味の悪い大記録」に…