『天皇陵古墳を歩く』は、橿原考古学研究所に長く務めた古墳研究の第一人者の著者が、奈良・大阪に点在する50基近くの天皇陵古墳を訪ね歩き、見どころや特徴を最新の学問的成果をもとに解説する。もとは新聞連載で、具体的、客観的な叙述なので、一般にもわかりやすい。箸墓古墳はその冒頭に登場する。

 箸墓古墳は最古の大型前方後円墳として以前から知られてはいたが、脚光を浴びたのは比較的最近だ。国立歴史民俗博物館が実施した放射性炭素14年代測定の結果から、箸墓古墳の築造は西暦240~260年ころと想定されると発表すると、魏志倭人伝で247、8年ころに亡くなったとされる倭の女王卑弥呼が被葬者では、という説が急浮上。ヤマトトトヒモモソヒメという女性が被葬者とされる点でも矛盾しない。そうなれば箸墓古墳のすぐ北方にある大集落遺跡・纏向(まきむく)遺跡が邪馬台国だ、という意見が俄然、強まったのだ。

 しかしこの問題について、かつて箸墓に特別に立ち入り調査をした経験のある著者は、放射性炭素14の年代測定は絶対的なものではないし、土器の製作が古墳築造と同時期とは限らない、と慎重だ。

 箸墓の近くにやはり大型の前方後円墳があり、宮内庁は崇神天皇陵としており、観光パンフレットなどもそう記す。しかし、実はこの古墳は江戸末期には景行天皇陵と呼ばれていたが、のちに崇神天皇陵に変更された。逆に、この古墳の近くにある景行天皇陵は、幕末に崇神天皇陵から変更された。著者ら学会は地元の地名を尊重して、崇神天皇陵を行燈山(あんどんやま)古墳、景行天皇陵を渋谷向山古墳と呼んでいる。いずれも山の辺の道の道沿いにある。

 勤王思想が高まり公武合体論が叫ばれた幕末、幕府は陵墓の保存修理を積極的に行った。天皇制を新たな中央集権国家の柱と位置づける明治政府も、明治初年、矢継ぎ早に陵墓政策を打ち出す。それまでの口碑流伝や地名などをもとに決められた陵墓をほぼ追認し、厳重に管理した。日本最大の古墳として有名な仁徳天皇陵(墳長486メートル、大阪府堺市)のように、現在では実在が疑われる天皇も被葬者に名を連ねることになった(一般には大山古墳あるいは大仙陵古墳)。

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「150年前から時が止まったまま」と著者が嘆く理由…