美しいフィレンツェの景色(写真:getty images)
美しいフィレンツェの景色(写真:getty images)

 もう40年も昔のことである。

 初めてのイタリア旅行で、丘の上にあるサン・ミニアート・アル・モンテから多分この500年くらい変わっていないフィレンツェの市街を見下ろしたとき、足が震えたのを覚えている。インターネットや各種のガイドブックで基礎知識のある今時の若人はこのようなことはないだろうが、昭和30年代生まれの筆者がこれほど大感激するのだから、第二次世界大戦前やさらに明治維新前後、戦国時代の天正遣欧少年使節や支倉常長の感激はいかばかりだったか。

 今ほど、交通が発達していなかった19世紀以前、我々のように異なった文化的背景にある人間だけでなく、同じヨーロッパの中でも北ヨーロッパ出身の芸術家がアルプスを越えて憧れのイタリアに来て大感激したことは、ゲーテの「イタリア紀行」やメンデルスゾーンの「イタリア交響曲」に見られるとおりである。18世紀には英国の豊かな階層の若者は家庭教師とともに「グランドツアー」を行ったが、フランスやドイツ諸国でも優れた音楽家、美術家に国や篤志家の金持ちがイタリア留学を世話した。19世紀の小説家スタンダールはナポレオン時代に軍人、官僚として出世した後に、自費でイタリアに遊学した。

■スタンダール 軍人生活は酒と女と観劇と

『赤と黒』や『恋愛論』で知られるフランスの作家スタンダール(本名Marie Henri Beyle)は、1783年フランス南東部グルノーブルに、裕福な弁護士の子として生まれた。幼くして母を亡くし、権威主義的で王党派だった父には反発しつつも、パリの理工科学校の入学試験に合格した。しかし、学業になじめず、親戚だったノエル・ダリュの紹介でナポレオン軍の少尉に任官する。もっとも、前線にたつことはなく、軍人生活は酒と女と観劇で過ごしたという。

 1802年には軍を辞して実業の世界に入り、さらに陸軍省の官吏、 さらに帝室財務監査官に昇進するが、ナポレオンの没落により失職した。王政復古後は共和主義者のジャーナリストとしてイタリアとフランスを往復しつつ著作にふける。1830年に出版した野心に燃える青年の成功と挫折を描いた『赤と黒』が有名になるとともに、七月革命で政界に返り咲き、『パルムの僧院』など傑作を物する。しかし、活動のさなか1842年、パリの街頭で脳卒中で死去。享年59。

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早川智

早川智

早川智(はやかわ・さとし)/1958年生まれ。日本大学医学部病態病理学系微生物学分野教授。医師。日本大学医学部卒。87年同大学院医学研究科修了。米City of Hope研究所、国立感染症研究所エイズ研究センター客員研究員などを経て、2007年から現職。著書に戦国武将を診る(朝日新聞出版)など

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「私の中から活力が失われ…」