横浜高校時代の松坂大輔 (c)朝日新聞社
横浜高校時代の松坂大輔 (c)朝日新聞社

 平成10年、夏の甲子園

 松坂大輔の『伝説』は、この大舞台でのパフォーマンスに“凝縮”され、ここから始まっているといっても、過言ではないだろう。

 準々決勝のPL学園戦で、延長17回、250球を投げ切っての完投勝利。高校野球界は平成30年から、延長12回を終えて同点の場合、13回からは双方とも無死一、二塁から攻撃を始める「タイブレーク制」となった。さらには「1試合100球」という投手の球数制限が、2019年春の新潟県大会のみとはいえ、試験的に導入される時代に入ってきた。恐らく、250球を一人で投げ切るような投手は、これから先の“新時代”にも生まれることはないだろう。

 そんなに投げたら、つぶれてしまう。

 将来を考えたら、もう投げたらダメだ。

 かまびすしい外野からの声も、自らの力と圧倒的なパフォーマンスで完全に封じ、並み居るライバルたちを、甲子園の舞台でことごとく退けていく。誰も、敵わなかった。

 後にソフトバンク巨人のエースとして活躍、2018年限りで現役を引退した杉内俊哉は、1998年夏の甲子園に、鹿児島実のエースとして登場。1回戦の八戸工大一戦でノーヒットノーランを達成する。私はその試合を、取材をかねて、ネット裏に陣取るスカウトの一人と見ていた。

「たぶん、青森県にはこんなすごいカーブを投げるピッチャー、いないよ。視界から消えるんだろう。八戸工大一の選手たちは、こんな球、見たことないから打てないんだ」

 プロのスカウトが、その非凡さを絶賛した杉内が、2回戦で松坂を擁する横浜と対戦することになる。ところが、そのノーヒッター左腕から4番・松坂は本塁打。さらに投げても、鹿児島実相手に完封勝利を収めた。

 こいつ、どこまですごいんだ。

 3回戦の星稜戦も完封。そして、PL学園戦での250球、準決勝の明徳義塾戦へとつながっていく。250球完投の翌日となる準決勝で、松坂は先発を回避し、レフトを守った。その頭上を、打球が何度となく超えていった。

 6点差をつけられた横浜が4点を奪って、2点差に追い上げた8回裏のことだった。甲子園のスタンドのあちこちで、試合の流れとは関係なく、散発的にどよめきが起こった。

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鳥肌の立った甲子園での光景