日本球界への疑問。首脳陣との確執。やりたいことがやれない。自分が正しいと思うことを、認めてもらえない。そんな野茂の苦悩を、真正面から受け止め、タッグを組んで球団側との交渉に立ち会ったのが、団野村という「代理人」だった。当時、日本球界では「代理人交渉」は認められていなかった。だから「エージェント」という存在が初めて、世間に認識されたときだったともいえるだろう。

 メジャーに行きたい。その実現のために本気で動き出した団野村が、野茂に授けた“英知”があった。野球協約を熟読すれば、日本の「任意引退」は、元の球団の同意がなければ、他球団への移籍はできないことはすぐに分かる。しかし、米国は日本の野球協約の適用外だった。日本の任意引退は、米国ではフリーエージェントと解釈され、日米間でその覚え書きも存在していた。つまり、日本の野球協約は“国内法”に過ぎないのだ。

 そこが、まさしく盲点だった。

 94年12月に、複数回行われた契約更改交渉で、複数年契約を要求した野茂と、単年契約を提示した球団側が決裂すると、野茂は球団側から差し出された「任意引退同意書」にサインしたという。これは、若手選手が米球界へ留学の形で派遣されるときなど、いったん、この同意書にサインするケースがある。球団側にすれば、契約交渉に際しての一貫した姿勢を見せ、強硬な野茂側へのいわば“ブラフ”のつもりで任意引退を突きつけたのだろう。こちらの言い分をくみ取ってもらわなければ、近鉄はおろか、日本の他球団でプレーができないという忠告の意味も含まれていたわけだ。

 しかし、両者の「視点」が、完全に違っていたのだ。このままでは、野球ができなくなると考えるのは、日本だけを見た発想に過ぎなかった。米国では関係ないのだ。

 会見に先立って行われた野茂と球団との最終交渉で「近鉄退団、メジャー挑戦」が決まったのだろう。球団の会見場に広報担当が入ってくると、会見席の背後にある球団旗を外し始めた。それが、まさに“答え”だった。

 会見場に入り切れないほどの報道陣が集結した。他社の番記者とも話し合った上で、記者クラブ側の総意として、私は広報に「会見場内の椅子を、すべて取り除いてほしい」とお願いした。椅子が邪魔になって、人が入り切れないほどになっていたのだ。だから、野茂の会見の際、実は、野茂の前にいた私たち記者団は、椅子ではなく、部屋のフロアに座り込んでいたのだ。

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時代を変えた野茂の決断