野茂には、いつも露骨にイヤな顔をされた。しかし、言葉が少なくとも、ノーコメントであろうと、嫌がっているという反応で原稿を書く。野茂にしてみれば、たまったものじゃないだろう。プロ野球記者として、その年が1年目だった私は、そんな世界なんだとも思っていた。ただひたすらに、その“ややこしいもめ事”を、何の疑問も持たず、紙面上に展開していた。自省を込めていえば、野球の本質から完全にそれていた。

 印象的なシーンが、そのシーズン中にもあった。1994年7月1日の対西武戦(西武球場=当時)で、野茂は毎回の16四球を出しながら、完投勝利を収めた。ただ、その球数は191球にも及んでいた。今なら、それだけ投げさせた監督は、間違いなく世間から糾弾されるだろう。しかし、当時はまだ、独自の調整法を貫き続けている野茂に、ある意味での“お灸を据えた”というニュアンスで報じる向きすらあった。1試合、1人で191球というのは、メジャーではありえないという一部の声にも、ここは日本なんだという反論が、まだ“成立”する時代だった。

 野茂はその後、右肩の異常を訴えて2軍落ち。4年連続最多勝の右腕は、5年目のその年、8勝にとどまった。

 野茂の2軍調整が続いていたことで、私にも2軍の取材機会が増えた。ある日、藤井寺球場のロッカー内で、別の選手の取材を行う機会があった。普段はオフリミットのスペースだが、他の記者もいなかったこともあってロッカーに入って話を聞いたのだ。

 そこから、出るときだった。

 ふと、野茂のロッカーに目が行った。一人一人のロッカーを区切る白い柱。そこに、野球カードが何枚も貼られていた。すべて、メジャーの一流選手たちのカードだ。

 ソウル五輪にも出場した野茂のメジャー志向は、かねてから有名だった。しかし、当時の日本でメジャーに行くという発想自体がなかった。

 行けるはずがない。

 行ったところで通用するはずもない。

 何をバカなことをいっているんだ。

 そう思われた時代だった。だから、メジャーが、ホントに好きなんだな。私も、その程度の認識だった。しかし、野茂は本気だったのだ。いつか、この世界に行く。この選手たちと対戦するんだ。カードを毎日見つめながら、その思いを固めていったのだろう。

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やりたいことがやれない…