ドジャースの入団会見に臨む野茂英雄(写真:getty Images)
ドジャースの入団会見に臨む野茂英雄(写真:getty Images)

 動きが、一気に慌ただしくなった。

 大阪市内のホテルの一室が、会見場に設定されていた。普段は、関西の新聞、テレビ各社の近鉄番記者を合わせても、10人程度しか出席しない。だから、宴会場のような広いスペースではない。そこに、記者たちがどっと詰めかけてきた。

 1995年1月9日。

 そのとき、私は近鉄番記者の「幹事社」を務めていた。球団広報に、報道陣側の要望をまとめて伝えたりする橋渡し役で、通例は年ごとの交代制。だから、この日の野茂の会見が、事実上の“初仕事”だった。

 交渉決裂、野茂メジャー挑戦へ--。 その一報が、全国を駆け巡っていた。

 ルーキーイヤーから4年連続最多勝。体を大きく捻り、剛球を投げ下ろす。宝刀・フォークでバットに空を切らせ、最多奪三振のタイトルも、同じく4年連続で獲得。近鉄はもちろん、日本を代表する存在だった。

 その右腕は、プロ5年目の1994年、右肩の故障に悩まされていた。そこに加えて、当時の近鉄監督・鈴木啓示との“確執”も表面化していた。プロ通算317勝、近鉄を長年にわたって支え続けてきた鈴木には、諦めない不屈の姿勢を表す「草魂」というフレーズが定着していた。発する言葉にも、根性論、精神論の比重が大きかったのも確かだ。

 投手は、投げてなんぼや。もっと投げろ。もっと練習しないと、この先、すぐにアカンようになる。鈴木の持論とその方針に対して、自らの主張を掲げ、真っ向から反発したのが野茂だった。

 投手の肩は消耗品。その頃から、すでにメジャーの常識になっていたコンセプトが、投手・野茂の“行動の前提”だった。2月のキャンプでも、ブルペンでの全力投球は30球前後。多くても50球程度で終わり、遠投だけの日もあれば、ノースローでウエートトレーニングやコンディショニングだけに充てる日もあった。

 当時の日本では、その練習スタイルは、何とも“緩いもの”に映った。投手は、投げてナンボや。投げんと、体が覚えへん。現役時代、キャンプのブルペンで300球近く投げることもあったという経験談も含め、鈴木はことあるごとに、私たち番記者にも自らの方針を語った。それは、野茂のやり方への“批判”にも聞こえた。監督とエースの度重なる衝突は、取材する側にとっては、申し訳ないが、まさしく格好のネタだった。

「監督がこう言ったけど、どう思う?」「またそんな話ですか?」。

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野茂には、いつも露骨にイヤな顔をされた…