結果、ドリキャスは“旧ハード”であるプレステを切り崩すことができず、2000年3月に“新ハード”である「PlayStation 2」(以下、PS2)が発売すると、完全に水をあけられてしまう結果となる。結果、セガは01年1月にハード事業からの撤退を宣言。以後はソフト供給会社として専念することとなった。その直後の01年3月決算で、セガは811億円もの特別損失を計上した。

 一方のPS2は、初代プレステのゲームがそのまま遊べるという下位互換を持ち、さらに当時まだ黎明期だったDVDが再生できるという点で強力だった。DVDプレーヤーは5万円以上する機種が珍しくなかった時代だけに、大きなインパクトを与えることになる。旧作も最新のゲームも1台で遊べ、さらにDVDも観られることから、PS2は発売3日間で98万台、1年間でドリキャスの最終販売台数の280万台を超える、約302万台を売り上げる空前絶後の売り上げとなった。

 だが、この破竹の勢いに立ち向かおうとした老舗メーカーがあった。

■初の光ディスク採用も任天堂の挽回ならず。時代はPS2一強へ

 PS2の快進撃の前に、初代“王者”の任天堂は黙っていなかった。64では初の首位陥落という憂き目に遭ったが、後継機の開発に松下電器(当時)と共同で乗り出していた。「ドルフィン」という開発名が付けられ、ソフトでは任天堂で初の光ディスクが採用された。PS2の発売から1年半後の2001年9月、「ニンテンドーゲームキューブ」(以下、ゲームキューブ)と名を変え、2万5000円で発売された。

 だが、当時既にPS2が国内で686万台(01年10月時点)出荷されており、市場が完成してしまっていたこと、同時発売タイトルが「マリオ」ではなく「ルイージマンション」で、売り上げも低調だったこと、セガやナムコといった外部ソフトメーカーの参入を緩和したものの、そもそものソフトの数が少ないという64以来の問題を克服できなかったことなどが重なり、依然として“少数精鋭”が貫かれる結果となった。最終的にゲームキューブの売り上げ台数は64を下回る404万台で、PS2の2198万台に全く太刀打ち出来なかった。

 なお、PS2世代の“負けハード”はもう一つ残されている。ゲームキューブの発売から約半年後の02年2月、米マイクロソフトが送り込んだ「Xbox」だ。当時、“黒船襲来”と耳目を集めたが、日本の家庭事情にそぐわないゲーム機本体の巨大さと、海外ゲーム主体のラインナップから日本人受けせず、最終的に53万台を売り上げたのみに留まった。

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情報線で出遅れ「PSP」