すると、ソニー・コンピュータエンタテインメント(当時、以下SCE)が動きを見せる。ゲーム機の独自展開を決定したのだ。こうして94年12月に登場したのが、「PlayStation」(以下、プレステ)であった。定価も3万9800円で、CD-ROM対応のゲーム機としては安かった。同時期にセガからは「セガサターン」(1994、以下、サターン)が4万4800円で発売される。この2機種は32bitのCPUを搭載し、新世代のゲーム機競争が勃発していくことになる。

■それでもカセットに固執し“失冠”した任天堂

 一方の任天堂も、スーファミからの世代交代を画策していた。「ウルトラファミコン」と仮称され、当初カセットだけでなく、CD-ROMを用いたゲーム機も検討されていた。だが、最終的には当時主流となっていたCD-ROMではなく、スーファミと同じロムカセット形式が採られることになった。「ウルトラファミコン」は「NINTENDO 64」(1996、以下、64)を正式名称とした。

 ロムカセットに固執した理由としては諸説があるが、主としてはCD-ROMだと読み込み時間がどうしても発生し、この懸念が拭いきれなかったからだといわれている。そして、プレステやセガサターンを上回る、64bitCPU搭載を謳い、既に発売していたプレステとサターンとの差別化を図ろうとした。

 だが、両機種の発売が1994年の末に対し、64は96年6月発売で、実に1年半もの遅れがあった。さらに、ロムカセットに固執したことで、ソフトの供給会社の数が激減。ゲーム機本体と同時に「スーパーマリオ64」など3タイトルのソフトが発売されただけで、以降3カ月間ソフトの発売がなく、深刻なソフト不足に見舞われた。一方で本数の割に人気タイトルが多く、“少数精鋭”で質の高さが評判を呼んだ。

 着実にユーザーを集めていたプレステは、国民的RPGである「ファイナルファンタジーVII」を皮切りに、多くのスーファミの人気タイトルの後継作の取り込みに成功した。この一因には、CD-ROMによることの開発と生産のしやすさ、ソフトの値段の安さが挙げられる。先述の「ファイナルファンタジーVI」の定価が1万1400円に対し、「VII」は6800円で約半額になった。

 結果、国内の販売台数を見ると、プレステの1900万台、サターンの580万台に対し、64は554万台。“絶対王者”であり続けた任天堂が2番手はおろか、3番手の地位に転落してしまう。以降、据え置き機にとっての任天堂は“冬の時代”が到来することになる。

■携帯機では任天堂の圧勝

 では、携帯機ではどうか。

平成で初めて出たゲーム機が、任天堂「ゲームボーイ」(1989)だ。国内の売り上げ台数は3247万台で、実にスーファミの倍近く売り上げている。当時としては最も売れたハードとも言えよう。

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“空中戦”の携帯機戦争