そして、警官が駆け付け、身柄拘束された瞬間についてはこう振り返っていた。

<息の絶え絶えで、とても疲れていました>

<精も根も尽き果てていた>

 宅間元死刑囚が当日、着ていたYシャツが血で真っ赤に染まっていたことについては、他人事のようにこう説明していた。

<どれだけ壮絶であったか、着ていた服でわかった>

 その現場はすさまじく、筆者も事件の一報を知り駆け付けた時は、子供たちが保護者に付き添われて、真っ青な顔で学校から帰っていった様子を今も記憶している。

 事件については、犯行を認めて自供した宅間元死刑囚。だが、遺族への謝罪、反省の弁は全くなかった。

 初公判では、証言台の前に立たされると、「座ってええかな」と悪態をつき、死刑判決が予想される中、「死ぬことにビビってません」とアピール。

 2003年8月28日の、判決公判でも冒頭に一方的に発言を求め、裁判長に却下されると、遺族を冒涜するような発言を繰り返して、刑務官に抱えられながら、退廷させられた。

 裁判長は2003年8月28日、被告人不在という異例の中、一方的に「死刑に処する」と主文を読み上げざるを得なかった。

 控訴期限の同9月10日、弁護人が控訴したが、その数日後、宅間元死刑囚が控訴を取り下げ、死刑判決を確定させた。死刑執行までの間、弁護士に宛てた手紙で宅間元死刑囚はこう綴っている。

<宝くじ60枚、電話の引き出しに入っていたのですが、万が一当たっていたら賠償に使いたい>

<ブスブスとエリートの卵を刺し続けた>

<充実した死刑囚生活を送るためには「金」です。コーヒーいろいろなお菓子類そして冬には使い捨てカイロ、弁当も買えます>

 こうした手紙は被害者遺族らさらに激怒させ、悲しませた。

 最後まで、謝罪の気持ちがないように見えた宅間元死刑囚。

 だが、事件直後の7月3日の供述調書では、附属池田小の現場でどう犯行に及んだかを実況見分する、宅間元死刑囚の様子が写真付きで、記されていた。

 調書では犯行現場となった最初の教室に入る前に宅間元死刑囚が腰縄姿で手を合わせている写真と直筆メモが記されていた。

<最初の教室に入る前に手を合わせました。自分のやった現場に入るのが、恐かったし、申し訳ないという気持ちがありました>

 宅間元死刑囚の弁護士たちは、懸命に謝罪、反省の意を示すように説得していた。しかし、宅間元死刑囚がその気持ちを公にすることはなかった。

 筆者は宅間元死刑囚の父、元妻、養母、友人など、数多くの人を取材した。

 皆は宅間元死刑囚に対し、荒くれもの、暴れん坊だと冷たかったが、「ここまでひどい事件を起こすような人ではない」というのが大半の反応だった。

 なぜ、宅間元死刑囚は死刑の間際、「申し訳ない」と一言だけでも謝罪しなかったのか?

 今でもその心中は理解できない。(今西憲之)

著者プロフィールを見る
今西憲之

今西憲之

大阪府生まれのジャーナリスト。大阪を拠点に週刊誌や月刊誌の取材を手がける。「週刊朝日」記者歴は30年以上。政治、社会などを中心にジャンルを問わず広くニュースを発信する。

今西憲之の記事一覧はこちら