「市民の反応はよかった。大阪は商店街が多いけど、一商店街一国運動といって、参加国応援の運動をやるなど、すごく盛り上がった」

 船場は振り返る。

 95年10月、大阪オリンピック招致推進会議が設立される。11月に基本理念策定委員会が答申した案に沿って、大阪市は96年9月に基本理念を策定した。

 メインテーマに「地球市民のオリンピック」を掲げ、「スポーツパラダイス」「新しい都市環境の創造」「世界と共に歩む都市大阪」の三点を唱えた。だが、「なぜ今、日本で二度目のオリンピックを大阪で」という疑問に対するアピールとしては、決定打に欠け、パンチ不足は否めなかった。

 政府も98年12月に大阪招致を閣議で了解する。99年2月にオリンピック招致委員会が発足した。

 2008年大会には、大阪のほかにバンコク(タイ)、カイロ(エジプト)などが招致の動きを示したが、2000年8月、IOC理事会が大阪、北京、イスタンブール、パリ、トロントの五都市を立候補都市として承認した。

 中でも北京の登場は脅威だった。船場が当時を回想する。

「北京は少し遅れて手を挙げた。初めてのオリンピック開催となる中国が出てきたら、勝ち目ないなあ、これはあかんわ、と思った。僕は、招致をやめようという話をしようかとも考えた。勇気ある撤退はできんかな、と。だけど、お役人は一度始めたら止まりません。どんどん進めていった」

 結局、そのまま2001年7月13日の開催都市決定のIOCモスクワ総会を迎えた。 決定の瞬間を実況中継する大画面が当日、大阪市北区中之島の大阪市中央公会堂に設置された。立ち見であふれるほどの市民が駆けつけた。

 ところが、中継開始の直後、大阪市の名前が画面から消えた。第一回投票で投票可能な全IOC委員104人のうち、六票しか獲得できず、五都市の最下位で最初に落選したのだ。第二回投票で北京が56票を獲得し、「初の中国開催」を実現した。

 大阪は敗退した。「もう一度」の道は遠かった。