2020年7月に開催される東京オリンピック。1964年の東京大会以来、日本で二度目となる夏季オリンピックの開催までには、56年の時間を要した。実は、その間にも、日本の各都市が何度か開催に名乗りを上げていた。招致の立役者たちが、オリンピックを通して日本をどう変革しようとしていたのかを描いたノンフィクション『東京は燃えたか』でも紹介した、オリンピック招致の舞台裏とは?

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 1964年の東京オリンピックの後、「もう一度」に最初に名乗りを上げたのは愛知県の名古屋市であった。13年後の77年8月、愛知県の仲谷義明知事が提案した。

 名古屋市長の本山政雄も招致を推進した。メインスタジアムは名古屋市の平和公園に建設するが、競技は愛知、岐阜、三重の東海三県での広域開催という構想だった。

 88年大会には、名古屋のほかにソウル、メルボルン(オーストラリア)が手を挙げ、その後、メルボルンは国内事情で立候補を断念した。

 9月、開催都市決定のIOC総会が西ドイツのバーデンバーデンで開かれた。アジアの名古屋とソウルの一騎討ちとなった。

 名古屋は心配の種が二つあった。一つは財政負担や環境問題を理由に展開された開催反対運動で、もう一つは市民の関心の低さであった。 

 だが、開催都市決定の投票権を持つ各国のIOC委員の間では、ライバルのソウルの支持は乏しい、という見方が強かった。終盤に「ソウルが猛追」と報じられたが、「名古屋招致はほぼ確実」という楽観ムードが支配していた。

 IOC総会が開催された日本時間の81年10月1日、名古屋市はバーデンバーデンからの「吉報」を前提に、記者会見場を設営し、留守役の愛知県の副知事や名古屋市の助役が報道陣の前で派遣団からの国際電話を待った。

「負けたよ」

 受話器を通して、仲谷知事の沈んだ声が届く。名古屋は52対27という予想外の大差で敗れた。まさかの落選であった。

 その時期、JOC委員長だった柴田勝治が生前、「名古屋の失敗」について語った。

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失敗の要因とは…