父親の重信は、大阪で人力車の会社を経営して財を成したが、やがて事業に行き詰まった。仁子の少女時代は、一家の生活は苦しかったという。それでも仁子はよく学び、小学校時代は教会の英語塾に通って英語力を培った。小学校卒業後は、金蘭会高等女学校に入学。月謝が払えずに、大阪電話局で働きながら、6年かけて18歳で卒業したという。

 苦労しながらも電話交換手の資格を取得した仁子は、女学校卒業後、縁あって京都市の都ホテル(現ウェスティン都ホテル京都)の電話室で勤務することに。その丁寧な働きぶりが社長の目に留まり、ホテルのフロント係に抜擢される。そこで百福と出会い、一目ぼれされた。そして2人は1945年3月、第一次大阪大空襲の8日後に結婚式を挙げた。百福35歳、仁子28歳の時だ。

 新居は大阪府吹田市に構えたが、空襲が激しくなり、兵庫県の上郡へ疎開。終戦後は大阪府泉大津市へ移り住み、若者を集めて塩作りを始めた。1947年には、宏基(現日清食品ホールディングス社長・CEO)が生まれ、百福は栄養食品を開発する「国民栄養科学研究所」を設立した。そして、ペースト状の栄養食品「ビセイクル」を世に出すことに成功する。ドラマでいうと、「ダネイホン」だ。

 須磨と仁子は泉大津で働く若者たちの母親代わりになって、食事を含めた生活の面倒を見た。月1回、誕生会も開いていたという。仁子にとっては、忙しくとも充実した日々だっただろう。

 しかし、1948年、百福がえん罪の脱税容疑でGHQ(連合国軍総司令部)に逮捕され、裁判で有罪の判決を下されてしまう。百福は収監され、財産を差し押さえられた仁子ら家族は、大阪府池田市の借家で生活することに。当時妊娠していた仁子は、差し入れを持って百福がいた巣鴨プリズンへ通った。百福が無罪で釈放されたのは、長女、明美が生まれた翌年、1950年だった。

 その後、百福は頼まれて信用組合の理事長となったが、組合は倒産。一家は再び財産を失ったが、仁子は夫に寄り添い続けた。やがて百福はインスタントラーメンの開発を始め、仁子や子どもたち、親せきらも試作品づくりを手伝った。仁子はスープ作りを担当、みんなで歌を歌いながら作業を進めた。1958年、とうとう「チキンラーメン」が完成。その開発過程で重要なヒントを百福にもたらしたのも、仁子だったが、ドラマでどう描かれるのか楽しみだ。

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仁子の子育ては…