――適応障害の療養は15年に及び、快復傾向にあると言われていますが、体調を心配する声もあります。

 もともと雅子さまはとても活発な方です。婚約内定前の平成元年(1989年)9月に、私はイギリスで「皇太子妃有力候補」とされていた小和田雅子さんを取材したことがありますが、テレビカメラを前に「私はお妃問題には一切関係ございません。外務省員として仕事をしていくつもりです」とハッキリと話す姿は、こびを感じさせずとても魅力的でした。病気療養もありましたが、立場が変われば、徐々に公務も増えていくのではないでしょうか。東京オリンピックや大阪万博など能力を発揮できる場も多くあると思います。

 しかも、美智子さまというお手本が身近にあるのは幸せなことです。美智子さまの場合は民間出身で初めて皇太子妃になり、すべてご進行などで学んできましたから。

雅子さまが2人で福島県を訪問されたとき、街を歩くときはパンツスタイルで、慰霊碑を訪れる際にはスカートにヒールの靴、ハンドバックに手袋を持つという正装にさっと着替えていました。天皇皇后両陛下の公務を見てきたことで、きちんとご公務をこなされているなと感じました。

――今後は天皇家、上皇家、皇嗣家の3つができますが、史上初の「上皇后」という称号になる美智子さまはどんな活動をされていくのでしょうか。

 今後の暮らしぶりや活動については何も発表されていませんが、美智子さまはこれまでも若い皇族方への経験の継承を大事にされてきたので、今後もそれを続けられるのではと想像しています。

 今上天皇がお手本にされてきた6代前の光格天皇は、徳川幕府の土台がゆらいできた時代に、血筋の遠い閑院宮家から9歳で即位しました。黒船の襲来や天明の飢饉などに見舞われながら、天皇として30年、上皇として30年という長きに渡って在位し、特に天明の飢饉に見舞われた際には御製(天皇が詠む和歌)によって幕府を動かし、国民を救ったと記録されています。

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眞子さまを誘った理由