リリーバーとは、過酷な仕事だ。我々番記者たちも、抑えた日には談話を取りに行かないし、勝利投手や打ったヒーローの取材に忙しかったりする。しかし、打たれたら、突然リリーバーに矛先を向ける。それでも岩瀬は、取材から逃げたりしない。ナゴヤドームの関係者駐車場で、愛車の前で立ち止まり、試合を冷静に振り返る。次の試合は、すぐにやってくる。悔しさを引きずっていれば、その後のパフォーマンスにも影響する。だから、すぐに切り替え、冷静さを取り戻す。そのタフさがなければ、20年間のプロ生活で、リリーバー一筋でやっていけるわけがない。

 最優秀中継ぎ賞3度、2004年に抑えに転向してからも、5度のセーブ王。ルーキーイヤーからは15年連続50試合以上登板、2005年から9年連続30セーブ以上。その“連続記録”が途絶えたのは、左肘を痛めた2014年。翌2015年には1軍登板ができなかった。「お前は、自分でやる、やらないを決める選手だよ」とGMだった落合は岩瀬に告げた。晩節を汚す。もう終わり。しかし、そんな周囲の雑音など関係ない。岩瀬は自らの意思で現役を続け、2017年には3年ぶりの50試合登板を果たすと、カムバック賞も受賞。鮮やかな復活を遂げた。

 愛知生まれの愛知育ち。もちろん、幼いころからの中日ファンだ。愛知大時代、一ファンとして、試合前の「スピードガンコンテスト」に参加。ナゴヤ球場のマウンドに立ち、140キロを超える速球を披露。「誰だ、こいつは!」。ファンはおろか、ベンチにいた選手、ネット裏の球団関係者を仰天させたというエピソードがある。1998年のドラフト2位だが、当時は逆指名ドラフト。社会人と大学生に限り、2枠はその逆指名に使うことができた。その年の目玉選手は横浜高・松坂大輔。しかし、中日は日本生命のスラッガー・福留孝介と地元・NTT東海の左腕、岩瀬の逆指名を取り付けていた。

 松坂の甲子園での活躍ぶりに、球団首脳から「福留を2位にして、松坂の抽選に参戦してはどうか?」と打診された時、当時スカウト部長だった中田宗男(現・編成部アマスカウトディレクター)は「そんなことはできません」と一蹴したという。しかし、もし仮にその方針に従っていれば、岩瀬は中日にいなかったかもしれない。そう考えると、縁とは奇なるものだ。

 400勝の金田正一が944試合、350勝の米田哲也が949試合。「昭和の鉄腕」とも言える先人たちをはるかに超える、前人未到の1000試合登板。その“未知なる領域”に岩瀬が足を踏み入れた2018年9月28日、本拠地・ナゴヤドームでの阪神戦は1点リードの9回、セーブシチュエーションでの登板だった。

 先頭の糸原健斗に死球、大山悠輔を中飛に打ち取っての1死一塁の場面で打席に迎えたのは、同期入団でかつてのチームメート・福留。123キロのスライダーで空振りに取った後、2球目は131キロの内角シュート。福留のどん詰まりの当たりは緩い一塁ゴロ。「孝介とは同期でやってきたんで……。打ち取れて、よかったです」。やはり感慨深いものがあったのだろう。岩瀬は声を詰まらせながらそのシーンを振り返った。そして2死二塁、一打同点の場面で迎えた阪神の4番・糸井嘉男には、5球目の129キロのスライダーでタイミングを狂わせてのショートゴロ。偉大なる記録は、こちらも歴代1位となる通算407セーブ目とともに達成された。

「まさかここまで来るとは……思わなかったんですけど」

 お立ち台でのヒーローインタビュー。マウンド上では決して喜怒哀楽を見せないポーカーフェースの岩瀬が、唇を震わせながら、あふれ出そうになる涙を必死にこらえていた。リリーバーとして、数々の記録を球史に刻み込んできたドラゴンズ一筋20年の男は、今季限りで現役を引退する。記録にも記憶にも残るサウスポーは、野球人生の“幕引き”も、無敵のストッパーらしく、鮮やかに締めくくってみせた。(文・喜瀬雅則)

●プロフィール
喜瀬雅則
1967年、神戸生まれの神戸育ち。関西学院大卒。サンケイスポーツ~産経新聞で野球担当22年。その間、阪神、近鉄、オリックス、中日、ソフトバンク、アマ野球の担当を歴任。産経夕刊の連載「独立リーグの現状」で2011年度ミズノスポーツライター賞優秀賞受賞。2016年1月、独立L高知のユニークな球団戦略を描いた初著書「牛を飼う球団」(小学館)出版。産経新聞社退社後の2017年8月からフリーのスポーツライターとして野球取材をメーンに活動中。