「本当に、本当に、コメントできる状態ではなかったんです。正確に言うと、コメントを求められる雰囲気でないというか。例えば、こちらがたたき台になるようなコメントを考えて『こんな感じでどうでしょう?』と尋ねる。そんなことも憚られるくらいのご様子でした」

 2人の夫婦関係について、いろいろな論評めいたものが出たりもしているが、正味の正味の話、他人が言葉に置き換えようなんてことは烏滸(おこ)がましさの極致。それが正解だと強く思う。

 言葉にもしないし、目にも見えない。そんな結びつきもあれば、また別の結びつきもある。そんな話を聞いて、心が震えた取材と言って思い出されるのが西川きよし氏の話だった。

 吉本新喜劇の看板女優だったヘレンさんと駆け出しの役者だったきよし。当時は、ヘレンさんの方が圧倒的に格上の格差婚だった。ヘレンさんは迷うことなく新喜劇を離れ、きよし氏のサポートにまわった。1966年、故横山やすし氏との漫才コンビ結成を逡巡していたきよしを「もし漫才がアカンかったら、2人で誰も知らない街に行って、ゆっくり暮らしましょ。それも楽しいわよ」と後押ししたのもヘレンさんだった。

「よく、決断させてくれたと思います。やっぱり、それができたのは、家内の育ってきた環境があるんでしょうね」(きよし氏)

 ヘレンさんは1946年10月6日、京都に生まれた。父はアメリカ人だったが、ヘレンさんが産まれてすぐに帰国したため、母親が一人で育てた。母は和裁の仕事をしており、できた着物を届ける時は幼いヘレンさんの手を引いてバスに乗り、依頼主の家に向かった。

「バスの車内で、ふと、ヘレンを見ると、二の腕が血まみれになってる。乗り合わせたお客さんが、お母さんに見つからないように、ヘレンの腕をギューッとつねってたんです。皮膚が破けて血が床にしたたるくらい。戦争で身内を亡くした方がたくさんいる中、歴史ある京の街をヨチヨチ歩く、目を引く小さな女の子。僕も戦争で身内を亡くした立場だったら、もしかしたら、そうしていたのかもしれません。そういう時代だったのかもしれません…」(同前)

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