遺品整理に着手して改めて気づいたのは、物欲や所有欲の少なかったトウチャンの私物は本当に少ないこと。わずかな日用品と洋服、あとは本と筆記用具とメガネくらい。「全部見たけどエロ本もアダルトビデオのひとつも出てこなかったよ。トウチャン、正真正銘のインポだったんやなあ。まさに本インポゥ(本因坊)……」と友人にくだらぬ冗談を言って引き笑いさせたが、私の知らない持ちものは、紙に遺していた文字以外にはほぼ何もなかった。

 それらを眺めている途中、私の手は黒い革表紙の小さな手帳のある頁で止まった。「ペコマル。一生に一度 こんなに愛した女はいない」。ブルーブラックの万年筆でそう走り書きされていた。ペコマルとは私の愛称だ。その文字を指でなぞりながら、寂しさに押しつぶされないよう、次の恋をしたいだの、運命の出会いがあったかも、などと孤独に耐えかねてトウチャンを早く忘れようとしていた自分をひたすら恥じた。彼は私をここまで愛してくれていたのに、私は自分が立ち直ることしか考えていなかった。これまでの感情の揺り戻しが一気に来たように、涙が溢れ、トウチャン亡き後初めて、時間を忘れて泣き続けた。

 よく、「人は2度死ぬ」と言われる。1度目は肉体の死。そして2度目は忘れ去られることによる死。1度目の死は誰もが避けられないけれど、2度目は残されたものがなんとかできる。私がまた誰かを愛したとしても、絶対にトウチャンを忘れない。忘却という名では死なせない。遺品に囲まれた書斎で、そう誓った。やはりそう簡単に次の恋などできないし、するべきではないのだ――。

 気が付けば私はひたすら伴侶を失くした人の本を読み漁っていた。この間刺さったのは、城山三郎著『そうか、もう君はいないのか』、川本三郎著『いまも、君を想う』、永田和宏著『歌に私は泣くだらう 妻・河野裕子闘病の十年』、竹田裕子著『100万回言っても、言い足りないけど:ジャーナリスト竹田圭吾を見送って』……。とくに前3冊の、妻を亡くした夫たちの文章を読むと、ああ、私が遺される方でよかった、トウチャンだったら絶対無理、耐えられなかったよね、そんな思いをさせなくてよかった、と、哀しい納得をするばかり。
感情の激しい揺り戻しの中、「立ち直る」目標にしていた3回忌がすぐそこに迫っていた。

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中瀬ゆかり

中瀬ゆかり

中瀬ゆかり(なかせ・ゆかり)/和歌山県出身。「新潮」編集部、「新潮45」編集長等を経て、2011年4月より出版部部長。「5時に夢中!」(TOKYO MX)、「とくダネ!」(フジテレビ)、「垣花正 あなたとハッピー!」(ニッポン放送)などに出演中。編集者として、白洲正子、野坂昭如、北杜夫、林真理子、群ようこなどの人気作家を担当。彼らのエッセイに「ペコちゃん」「魔性の女A子」などの名前で登場する名物編集長。最愛の伴侶、 作家の白川道が2015年4月に死去。ボツイチに。

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