4月の入院は動脈瘤の破裂前で、今回は破裂後だったせいかもしれない。痛みは前回以上だった。

 新聞記者として不思議だったのは、自分の口から出てきたのが「痛い」「苦しい」ばかりで、この連載でしばしば使ってきた「しんどい」「つらい」が一度も頭に浮かばなかったことだ。

 記者の習い性か、「痛い」「苦しい」を適当に並べ替えて、一本調子になるのを避けていたようだ。ここで出てこなかった「しんどい」「つらい」は自分にとって実感を伴わない言葉だと気づき、今後使うのはやめようと妙な決意をした。

  ◇
 人の体は、脳みその意識を超えて生きようとしているのではないか。

 今回の入院で、そう考えるようになった。

 動脈は血液が流れる道路のようなものだ。だが検査したところ、動脈瘤が破裂しても、血は動脈の脇道を通って大腸のほうへ流れているとみてよさそうだった。脇道が発達したおかげで、大腸が致命的なダメージを受けるのを避けられる、というわけだ。

 また、気づいたら血流の「バイパス」が新たにできている、ということも以前、別の場所で経験している。

 人体とは、なんとうまく機能するのだろう。

 血流ばかりではない。昨年には、食べたものを消化する臓器と臓器の間にバイパスができる「珍事」があった。「ありえないことが起きている」と医師が驚いていた表情が忘れられない。

 しかもそのバイパスを先日、1年数カ月ぶりに調べたところ、ふさがっていた。またしても医師は「極めて珍しい」と言った。

 このバイパスは私の暮らしや治療に何をもたらしたのか。医師にも私にもわからない。だが血流のほうにプラスの意味があったことを考えると、こちらも何らかの役割を果たし、消えていったと思わざるを得ないのだ。

 病気と付き合いだして2年半。治療の知識だけでなく、こまごまとした知恵はついた。医師や看護師とやりとりするコツや、ストレスになる文章や人との距離の置き方といったことだ。

 そうした判断をする「脳みそ」こそ自らの核で、全体を動かす司令塔だ。これまではそう考えてきた。

 しかし、しょせん脳みそは体の一部に過ぎず、小さな役割をこなしているに過ぎないのではないか。

 脳みそも手駒に使いつつ、あるときは血管、またあるときは臓器といった姿を変えて、生きながらえようとする――。さて、次はどんな手を打とうかと、着々とプランを立てている存在を思い浮かべ、厳かな気分になった。

著者プロフィールを見る
野上祐

野上祐

野上祐(のがみ・ゆう)/1972年生まれ。96年に朝日新聞に入り、仙台支局、沼津支局、名古屋社会部を経て政治部に。福島総局で次長(デスク)として働いていた2016年1月、がんの疑いを指摘され、翌月手術。現在は闘病中

野上祐の記事一覧はこちら