■報徳学園で語り継がれる“伝説”

 山崎は高校入学後、先輩たちの会話の中にやたらと「松坂」という名前が出てくるのを耳にした。山崎が入学した当時の90年代、高校野球界はまだまだ強固な縦社会。先輩と後輩の線引きは明確で、1年生が3年生に気軽に話せる雰囲気すらなかったのが当時の現実だった。

「だから、間接的に聞いたんですけどね。その時は先輩にそんな話、聞けないじゃないですか」

 山崎が笑いながら明かした、若き日の思い出。先輩たちがどこか誇らしげに語っていたのは、報徳学園に今も伝えられているという「98年の松坂伝説」だった。

 「新品の金属バットにヒビが入った」

 松坂の剛速球の前に、甲子園出場に際して新調されたばかりのはずの金属バットが「折れた」のだという。

「すごかったな」「考えられへんわ」

 自分たちが負けた相手だ。本当ならば、甲子園で松坂に「リベンジ」を果たすため、練習で、そして夏の県大会を戦っていく上での大きなモチベーションとなるべき相手であるはずだ。

 しかし、先輩たちは負けたはずなのに、なぜかうれしそうに松坂のことを語っていたのだ。

 あいつは、ただ者じゃないぞ--。

 あのスピードボールを間近で見て、体感した男たちにとって、松坂大輔と対峙したことはもはや「究極のエピソード」へとその中身が変貌してしまうのだ。

「今でも、当時の先輩とか仲間に会うと『松坂はすごかった』という話になるんですよね」

 98年夏、報徳学園は兵庫県大会を勝ち抜いて、春夏連続の甲子園出場を果たした。1年生ながら「背番号16」の控え捕手として、山崎もベンチ入りを果たした。しかし、報徳学園は富山商に敗れ、春夏ともに甲子園で白星は挙げられず、夏の甲子園で松坂へのリベンジの機会は訪れなかった。

「そのときの僕は、甲子園で試合に出られるような実力じゃなかったですけど」

 山崎は謙遜気味に振り返ったが、先輩たちが口々に「すごかった」と表現する松坂大輔にあの夏の甲子園で対戦してみたかったという淡い憧れの気持ちがずっと消えることはなかった。

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何とか、松坂さんからヒットを打ちたい