久しぶりにそのころの記事を読むと、細野氏は「民主のことを『自民よりやる気がある"保守政党"』と位置づけて、保守支持層からの支援を期待している」と書いてある。



 昨秋の衆院選で彼は、保守政党を掲げた希望の党の結成メンバーとして候補者調整にあたり、安全保障政策などをめぐる「排除」騒ぎに関わった。当時を振り返れば当然と思ういっぽう、運命の皮肉も感じざるを得ない。

 彼がわずか8カ月間の短期決戦で初当選を果たしたのは、自民系が前職2人を含めて3人も立候補したことによる「漁夫の利」だった。分裂のおそろしさを肌身で知る彼が、排除による民進党系の3分裂に関わろうとは。

 当時の彼は月50万円の政党助成金が活動の命綱で、お米は支援者から贈られたもの。その貧乏話は著書『パラシューター』に詳しい。

「今回、小選挙区で当選した20代は小渕優子さんと私だけ。地盤、看板、カバンの『3バン』がある小渕さんと、どれもない自分ということで『アエラ』などで取り上げてもらえないか」

 選挙後、そんな提案を受けたのを覚えている。

  ◇
 彼に遅れること4年。2004年4月に私も永田町で働き始めた。再会したのは衆院本会議場と議員食堂の間だ。薄暗がりのソファで彼が話し込んでいるところに通りかかると、話し相手だった静岡選出の同僚議員に「地元で取材してくれた記者だ」と私を紹介した。

 もっとも私は小泉純一郎首相の総理番として政治取材を始めたばかり。かたや彼は若手の注目株だ。国会内でばったり会えば「国会はどうなるの?」などと尋ねられ、話を合わせたが、気恥ずかしさが先に立った。

 永田町で「取材」に出かけたのは一度だけだ。野田政権の後半、彼が首相の座に近づいた瞬間があった。古い知り合いがどんな表情をしているか。国会内をうろつくと、衆院の正面玄関側の階段を2階から1階に降りてくるのに出くわした。
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