「お前をコーチとして育てるつもりだから」と根本にも声を掛けられた岡本は毎オフ、西武グループが経営する関連施設でトレーニング法を勉強した。選手出身のトレーニングコーチだからこそ、ルーキーの松坂は岡本を頼ることができた。

 1999年、高知・春野キャンプ。ルーキーイヤーの松坂フィーバーは最高潮に達していた。ブルペンで投げる、グラウンドで走る。それだけで、カメラのフラッシュが光った。集中力が欠けそうになると、松坂は小さな声でつぶやいた。

「光さん、ちょっと……」

「よし、分かった」

 岡本はカメラマンたちに「ちょっと遠慮してやって」と頭を下げた。キャッチボールの相手も、たびたび岡本が務めた。松坂は平気でカットボールやツーシームを投げ、手元で変化させる。松坂のストレートを受ける際、岡本がグラブの芯を外してキャッチして痛がるたびに、松坂は大笑いしていた。ところが、数日が過ぎたころ、松坂はキャッチャーミットを持ってきて「これで受けて下さい」。岡本用のミットを松坂はわざわざ準備してきたのだ。

 横浜高時代には4番を務め、甲子園でも本塁打を放った松坂は、バッティングも大好きだった。だが、指名打者制のパ・リーグでは、投手が打席に入ることはない。それでも、練習の一環として打撃練習をしたいという松坂に、元投手の岡本が投げてやった。金属バットを持って、いつもとは逆の左打席に入ると、平気で左中間スタンドへ放り込む高いセンスに、当時打撃コーチだった土井正博(現・中日打撃コーチ)も「野手なら30発やな」と舌を巻いたという。

 そうやって、岡本は松坂の体調を常に気遣い、チェックする役割を担っていた。それこそ、影武者のように松坂のそばにいた。それも全く、苦にならなかったという。

「スーパースターがいつも目の前にいて、キャッチボールしましょうとか、言うわけですからね。ハッピーだったのは、僕の方でした」

 その岡本にとって、忘れられない一日がある。

 1999年4月7日。松坂のプロ初登板は、東京ドームでの日本ハム戦だった。その登板前日のことだった。松坂から岡本に電話が入った。

「岡本さん、明日、行きますよね。車ですよね?」

 初登板。その大事な一日のスタート、松坂は20歳年上の先輩にドームまで送ってほしいとお願いする。なかなか言えることでもない。その“甘え”は、信頼の証しでもある。

 当時、岡本の愛車は左ハンドル。松坂は遠慮することなく、右側の助手席に座った。事故など起こしたら一大事だけに「冷や汗もんでしたけど」。そんな岡本の心配をよそに、首都高の料金所では、松坂が車の窓を開け、身を乗り出すと通行料を係員に手渡した。

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松坂は岡本にその「夢」を告げた