当時、巨人のエースは江川卓。80年に16勝、81年に20勝、82年も19勝。5歳年下の岡本にとって、江川は雲の上の存在だった。その尊敬する先輩の高校時代を彷彿、させるどころか、まったくひけを取らない自分より20歳年下の「平成の怪物」に、岡本は完全に魅了されてしまった。

「同じ投手として、投げている球を見て分かりますよね。真っすぐとスライダーだけで十分にプロでもやれる。後に、斎藤佑樹君(早実―早大―現日本ハム)が出てきて『持ってる』って言われていたことがありましたけど、そんなの、とんでもないというか、松坂大輔以上に持ってるヤツなんか、いないですよ」

 その甲子園が終わった直後の9月、次男が生まれた岡本は何の迷いもなく「大輔」と名付けた。もちろん、松坂大輔にちなんでの命名だ。

 当時、松坂の希望球団は地元・横浜(現DeNA)と伝えられ、相思相愛の関係だといわれた。そこで岡本は、横浜の関係者に「松坂が入ったら、ウチの『大輔』と一緒に写真を撮らせて下さい」とお願いまでしていたという。その松坂が、横浜、日本ハムとの3球団競合の末、なんと自分が所属している西武に引き当てられたのだ。

 ゴールデンルーキーが、やってくる──。

 年明けの1月には、新人合同自主トレがある。プロとしての事実上の第一歩を記す松坂の一挙手一投足に、日本中の注目が集まる。その指導にあたるのがトレーニングコーチだ。岡本の双肩にかかる責任は、重大だった。

「普通に投げたら、1年目から10勝はできる。西武にはその時、チーム力もありましたから、打線とかのかみ合わせで、さらに上乗せできる。だから、怪我だけはさせたらアカン。機嫌よく投げさせてあげられたらいい。僕の仕事はそれだけです。体を鍛えるとか、そういうのはすでに持っている選手でしたから」

 岡本は和歌山・串本高から松下電器に進んだが、アマ時代にトレーニング法を専門的に学んだことはない。1980年代後半頃からトレーニングの重要性が説かれるようになり、各球団は陸上経験者などを招へいし、体作りやコンディショニングに特化した部門を置くようになっていた。

 そんな中で、西武の管理部長だった根本陸夫は、選手の気持ちが分かる「選手出身者」をトレーニングコーチに起用したいという考えを抱いていた。当時、西武2軍投手コーチだった森繁和(現中日監督)から、岡本は練習のたびに「誰々を走らせておけ」と指示を受けるようになった。

 社会人を経験者し、後に政治家に転身している。当時から指導者としての素養もあったのだろう。森は根本に、トレーニングコーチとして岡本を推薦したという。「もうプロの投手としては無理だなと思っていた頃」という1990年シーズン途中、岡本は異例の現役引退。そのままトレーニング部門を担うことになった。

次のページ
岡本を頼りにしたルーキーの松坂