世のありように「ひっかき傷」をつけたと誇りに思っている「調査報道」が二つある。

 一つは高校入試をめぐるものだ。後に制度改正に結実するいきさつをいずれ詳しく紹介したいが、きっかけは新聞各紙に出ている公開情報を眺めていて「数字の1が並んでいるのは不自然だ」と感じたことだ。

 だが本当におかしなことが起きているのなら、何万人が何年間も見ていて気づかないはずがない。そんなおそるおそるのスタートだった。

 もう一つは、ある地方選挙を通して公職選挙法にできた「抜け穴」の背景に迫ったものだ。

 候補者の中に、ほかの選挙で陣営から違反者を出した男性がいた。立候補は合法だが、グレーな感じがする。なぜそんなことが起きるのか、地元だけ取材してもわからない。視線を過去に向け、これに関わった総務省や当時の担当閣僚に取材した結果、法律の趣旨と矛盾するこうした立候補を想定していなかったことが分かった――という話だ。

 男性が当選すると、自民党の森喜朗幹事長(当時、後に首相)、民主党の羽田孜幹事長(元首相)はともに「釈然としない」と表現。「抜け穴」はしばらく注目のテーマとなった。

 この件でおそろしいのは、こうした立候補が初めてではなかったことだ。過去にも同じような例が1件あったが、その地元の記者が反応せず、それきりになっていた、というわけだ。

 見ようとしてはじめて見えるのは調査報道に限らない。休日に遊びに行った先で心温まる「暇だね」を見つけるのも同じだ。目玉が反応するかどうか。それが出発点であり、決め手なのだ。

 沼津を離れる2001年。母校に講師として招かれ、高校1年生たちに記者の仕事について話した。「1日のうちの何時間かを『記者として働く』のではない。24時間丸ごと『記者になる』のだ」。眠い目をこすって働けという意味ではない。目が開いている限り、見ようとするのが記者だ、と伝えたかった。

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