「今だから言います。ホント、高校時代のチームメートには悪かったなと思います。でも、あの時の僕はスピードを出すことしか考えてなかったんです」

 思い切り腕を振った。勝つためにかわす、力をセーブする。そんなことはまったく頭になかった。松坂さんを超えてやる。俺が一番になる--。

 2001年8月16日。2回戦の玉野光南戦。寺原の剛速球がうなりを上げたのは6回だった。ネット裏に陣取っていたアトランタ・ブレーブスのスカウトが構えていたスピードガンの表示に、周囲がどよめいた。

「98」

 マイル表示だった。キロに換算すると「157.7」。テレビ中継の表示でも「154」。寺原がスピードで松坂を超えた瞬間だった。

 甲子園最速をマークした寺原だが、準々決勝では松坂の母校・横浜に敗れてベスト8に終わった。春夏連続制覇、PL学園との延長17回・250球の熱投、京都成章との決勝戦ノーヒットノーラン。松坂が高校3年の夏に築いた数々の伝説には遠く及ばなかった。そもそも自分に、そんな離れ業ができるとは思ってもいなかったという。だからこそ、彼はスピード超えだけを狙ったのだ。ギラギラした野心。若き日の思い出だ。

「自分がプロになりたい。そう思うようになったのは、あの人を見たからです」

 寺原は松坂の存在をそう表現する。

 プロ1年目の2002年5月29日。寺原は西武・松坂と先発で初対戦した。「怪物対決」と騒がれた18歳と21歳の初対決は、6回108球、151キロの剛球をマークした寺原が松坂に投げ勝ち、白星も挙げている。

 その「憧れの人」と一緒に過ごした2015年からの3年間。寺原は今、ちょっとだけ悔やんでいることがある。

「グッズとか、もらっとけばよかった……。実は持ってないんですよね、松坂さんのもの」

 グラブでもウエアでも何でもよかった。退団に際してロッカーを整理していた松坂が処理するグッズを分けていたとき、寺原は誰もいない筑後のロッカーに無造作に置かれていたその“処分予定品”を、こっそり探ったという。その中に汗取り用のウエア、通称“しゃかしゃか”という、走るとそんな音がする、あの薄いウインドブレーカーがあった。そして、そのウインドブレーカーには松坂の背番号『18』が記されていた。

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「これ、いいいな」