そんな中でも、日本の「背番号18」は、堂々と、臆することなく、五輪のマウンドを守り続けていた。

 1980年生まれの松坂は当時20歳。1969年生まれの田口とは11歳も違う。それでも田口をはじめ、誰もが日本のエースとして信頼を置いた。

「あいつの方が、だいぶ背負っているんですよ」

 松坂は、シドニー五輪の出場権を獲得する、その前年のアジア選手権でもエースとして投げていた。まさしく、日本の屋台骨を支える大きな柱だった。

 シドニー五輪、予選リーグ初戦の米国戦。開幕投手は当然のごとく、松坂だった。米国を相手に、松坂は一歩も引かない。2点を奪われながらも、延長11回まで松坂は投げ続けた。延長13回、同級生の杉内俊哉(当時・三菱重工長崎、現巨人)がサヨナラ2ランを浴び、黒星スタートとなったが、その後、日本はオランダ、オーストラリア、イタリア、南アフリカを相手に4連勝。プロとアマの混成チームは、その垣根を取り払ったかのように、しっかりとした一体感を見せ始めていた。

 そして、宿敵・韓国との一戦。勝たなければならない相手には、松坂が先発する。しかし、この試合を6-7で落とした日本は続くキューバ戦にも敗れ、4位通過で決勝トーナメントへ進出することになる。

 準決勝で再びキューバに敗れ、3位決定戦へ。5大会連続のメダル獲得という、その大命題を課せられた重圧の中、松坂は中3日で韓国に再び立ち向かった。

 7回まで0-0。しかし、先に力尽きたのは、松坂の方だった。8回、韓国に3点を奪われ、最終スコアは1-3。松坂は3試合に投げながら、1勝もできなかった。

 それでも、松坂の獅子奮迅ぶりは見事だった。予選リーグと決勝トーナメントの計9試合で、日本投手陣の総イニング数は83。そのうち、松坂一人で「27回」を投げている。背番号18は堂々と世界に立ち向かった。

 田口はその後、松坂と顔を合わせたときにも「五輪の話とか、したことないなあ……」。2人にとっては、苦く、悔しい思い出だろう。しかし、あの重圧の中に身を置いた体験が、2人のキャリアにその後、大きな影響を与えたのは間違いない。

 その後、松坂は西武からレッドソックスへ。8年間、米国でプレーすると、2015年からソフトバンクへ。田口はオリックスからカージナルスへ。8年間のメジャー生活の後、2010年にオリックスへ。日本、メジャー、そして日本へ。さらに、日本に復帰してからの“その後”も、同じような経緯をたどっている。

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田口も松坂もケガに苦しんだ