中日・松坂大輔 (c)朝日新聞社
中日・松坂大輔 (c)朝日新聞社

 「日の丸」の重み。それは背負ったものにしか分からないのだろう。

 2000年のシドニー五輪で、日本代表として生まれて初めて「ジャパン」のユニホームに袖を通した田口壮は、あの長く、苦しかった夏の日をこう述懐した。

「二度とやりたくない……って、思いましたね」

 そして同じ、いや、きっとそれ以上の重圧を背負い続けていた11歳年下の“戦友”に尊敬の念を抱いたという。

「ピッチャーでエースですよ。松坂大輔が投げる試合は絶対に勝たないといけない。野手は、まず9人でぶつかっていく。でもピッチャーは、点を取られたら、終わり。それを背負っていた大輔って、よっぽどタフなんでしょうね」

 田口は日本代表の「背番号18」の背中を見つめながら、いつも「なんとか勝たせたい」と思い続けていた。松坂と田口。シドニーの地で、その野球人生が初めて交錯した2人はその後、奇しくも同じようなキャリアを歩んでいくことになる。

 2016年からオリックスで2軍監督を務めている田口は、そのリーダーシップ、指導力、日米両球界での経験値の高さから、近い将来、1軍監督としてオリックスを率いると言われている文句なしの幹部候補生であり、その野球人生も数多くの栄光に彩られている。

 関学大でも当時、関西学生リーグの最多安打記録を樹立するなど、走攻守の3拍子がそろった遊撃手として、高く評価され、1991年のドラフト1位指名でオリックスに入団。ドラフト同期のイチローや現監督の福良淳一らとともに、阪神大震災が発生した1995年に「がんばろう神戸」を合言葉に、被災地・神戸でリーグ優勝、さらに翌1996年には日本一に輝いた。

 そしてFA権を行使し、2002年にメジャー移籍。2006年にカージナルスで、2008年にはフィリーズでそれぞれ世界一にも輝き、田口は日米で「頂点」に立っている。

 だが、その豊富なキャリアの中でなぜか、日本代表には縁がなかった。

「五輪も、イメージを全くしていなかったんです」

 当時は、五輪といえば「アマ」のもの。プロ入りはイコール、五輪出場という夢を諦めることでもあったが、田口はむしろ、全く別世界のことだと思っていたのだ。その田口が五輪メンバー入りを打診されたのは、2000年の開幕直前だった。

 シドニーまでの過去4度の五輪で、野球はいずれもメダルを獲得していた。野球は1984年のロサンゼルス五輪でデモンストレーション競技として初採用されると、日本代表は金メダルを獲得。続く88年のソウル五輪は銀メダル、92年のバルセロナ五輪では銅メダル、96年のアトランタ五輪は銀メダル。4大会連続でメダルを獲得してきた。その栄光の系譜をつないできたのは「アマ」だった。

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五輪でもプロの参加が検討されたが…