西田敏行さん (c)朝日新聞社
西田敏行さん (c)朝日新聞社

 今月9日の朝日新聞夕刊に「西郷の墓前 大久保の法要『待った』/西南戦争の薩軍と官軍」という見出しの記事が載った。要約すると、今年は暗殺された大久保の没後140年にあたりその命日に「大久保利通公140年法楽」を南洲墓地慰霊塔前で催す予定だった。しかし市民グループ「敬天愛人フォーラム」の代表世話役から「賊軍の汚名を着たまま眠る人々や遺族の思いを考えて」との反発をうけて、「西南之役官軍薩軍恩讐を越えての法要」に変更した、という趣旨で「遺恨なお……名称変え開催」と小見出しが付けられた1000字に満たない記事だった。

 その記事から思い起こされるのは、「大久保没後100年記念」の1979(昭和54)年、「大久保甲東百年記念顕彰会」が大久保の銅像を建立しようとしたときのエピソードだ。

 大河ドラマ「翔ぶが如く」が契機となり銅像建立の話が立ち上がった年、鹿児島では「西郷どんの敵」とされている大久保の銅像建立には反対者も多かった。喧々諤々の末にようやく建立が決定するも、建立場所をどこにするかの騒ぎになる。最初は城山の麓、西郷像の隣りにという案が出たが、「西郷さんを裏切った男を西郷さんの隣りにはおけない」との声が上がる。その後、照國神社、博物館、県庁前、鹿児島駅などの候補地を経て、西鹿児島駅(現鹿児島中央駅)近くのライオンズ広場に建立された。西郷の銅像建立より遅れること42年が経過していた。

 前置きが長くなったが、1990(平成2)年の大河ドラマ28回目は大久保利通の銅像建立の契機になった(と、言われている)「翔ぶが如く」だった。

 原作は司馬遼太郎の同名小説で、「竜馬がゆく」「国盗り物語」「花神」に続く4回目の大河への原作提供(その後の『功名が辻』を含め計5回)だ。主人公の西郷と大久保を、西田敏行と鹿賀丈史が演じた。

 西田・鹿賀は、写真や肖像画の本人そっくりと両家の子孫から太鼓判を押された上、ドラマ本編でもその好演が高く評価された。なかでも、征韓論をめぐって二人が激しく論争をする場面は大河ドラマの名シーンのひとつとして今でも語り継がれている。

著者プロフィールを見る
植草信和

植草信和

植草信和(うえくさ・のぶかず)/1949年、千葉県市川市生まれ。キネマ旬報社に入社し、1991年に同誌編集長。退社後2006年、映画製作・配給会社「太秦株式会社」設立。現在は非常勤顧問。

植草信和の記事一覧はこちら
次のページ