これは同時に、お金は「恩を与える」ものでもあるということだ。人はお金を受け取ると、何らかの精神的な負担を感じる。お金を支払うことで、「人に何かをしてもらえるような力」を得ることができる。お金の両面である。

 未来の世界では、仮想通貨的な手段を使って、個人や企業同士が「価値」を直接やり取りするようになるのかも知れないし、もはやそこでやり取りするものを「お金」とは呼ばなくなるのかもしれない。

 楽観的な論者の中には、技術の進歩によって生活に必要な物質的生産はごく簡単にできるようになり、人は生きるために多くの時間を働くのではなく、自分の好きな活動に集中し、それをよいと評価した人が、直接何らかの「価値」を送るような、「評価」と「価値」を中心とする経済世界が実現するのではないかといった未来を予想する人もいる。

 正直に言って、私には、現在われわれが「お金」と呼んでいるものに相当する存在がなくなってしまう世の中が来ることを想像できない。

 しかし、例えば、誰でも自由に仮想通貨のようなものが発行できて、銀行はないけれども現在銀行が果たしている機能に代わりうるサービスが利用可能で、ことによると現在のような株式や債券のようなものがなくなって別の資金(というよりも「価値」の)調達手段が多数あるような世界が実現するかもしれない。そのときに、われわれは何を考えて、どう振る舞ったらいいのか。

 私は、その対象を「価値」と呼ぶとして、人が「価値」を、(1)稼ぎ、(2)貯めて(一部を将来の支出に振り分ける)、(3)運用して、(4)計画的に取り崩す、それぞれのプロセスに対して、計画と戦略の必要性・有効性があることに本質的な変化はないだろう。

 より多くの「価値」を使いたい人は、より多く稼がなければならない。

 また、対象が「お金」から「価値」(と呼ばれるもの)に変わっても、その「稼ぐ量」と「使う量」を必要に応じて常に一致させる事ができるわけではないので、「貯める」「取り崩す」に関する計画性は重要であり続けるだろう。

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