南海時代の江本さん=1975年撮影 (c)朝日新聞社
南海時代の江本さん=1975年撮影 (c)朝日新聞社
野村監督やブレイザーとの思い出を語る江本さん。4月には自伝『野球バカは死なず』(文春新書)を発表した(撮影/西岡千史)
野村監督やブレイザーとの思い出を語る江本さん。4月には自伝『野球バカは死なず』(文春新書)を発表した(撮影/西岡千史)

 プロ入り間近に思えた江本孟紀さんは、大学の野球部監督と対立し、4年生の秋季リーグはベンチ入りすらできなかった。もう、プロ入りの夢は途絶えたかに思えたが……。エモやんが自身の野球人生を振り返るシリーズ「エモヤンのわが野球人生」(全5回)の第3回をお届けする。

【写真】野村克也さんの監督時代を語る江本さん

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 法政大からノンプロの谷組に入社。この時には「なんとしてでもプロ野球選手になる」との思いが強まっていました。同年代の選手が、プロで活躍している。しかも、自分が選手として劣っていると思えない同級生が、1軍のレギュラーとして出ている。「プロでやれるはずだ」との思いが強かった。

 プロに行くなら24歳までが限界。そう考えていました。だからこそ、この1年が最後の勝負になると覚悟を決めました。

 ところが、またもや人生の崖っぷちに立たされてしまう。スカウトが集まる都市対抗野球大会に向けて練習していると、予選が始まる前に猛烈な腹痛に襲われました。盲腸で入院、手術することになり、予選に出られませんでした。秋にはゲームに出ましたが、結局、この年もドラフトで指名されませんでした。

 でも、プロ野球選手になりたかったし、「自分ほどの選手がなぜ指名されないのか」との思い上がりもあった。それで、テスト入団させてくれる球団を探していたころ、知り合いの記者が「江本という面白いピッチャーがいる」と、スカウトに推薦してくれたそうです。それで東映フライヤーズから声がかかりました。実際のところは、その年にドラフト指名した選手のうちで一人に入団を断られて、それで枠が余ったので声がかかったようです。契約金400万円、年俸は120万円でした。

 崖っぷちになっても、思いを強く持っていればいつか叶う。私の人生、それの繰り返しです。その思いは今でも変わりません。

■入団のあいさつで張本さんから言われた一言

 入団した時はすでに2月。キャンプも始まっていました。入団して早々に私を呼び出したのは、首位打者7度の張本勲さんでした。牢名主のような雰囲気で「お前、ケンカするなよ」と言われたのを今でも憶えてます。

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選手権監督の野村さんから言われた一言でエースに