リリーフした投手が打者を三振に切って取る好火消し。ここまでならよくある話なのだが、1994年4月16日のヤクルトvs巨人(東京ドーム)では、救援投手と直接対戦していない打者に三振が記録されるという不思議な現象が起きた。

 0対3とリードされたヤクルトは7回、ハウエルの中前タイムリーで1点を返した後、秦真司が四球を選び、なおも無死満塁のチャンス。

 ここが勝負どころと見たヤクルト・野村克也監督は、次打者・真中満がカウント1-2と追い込まれたところで、代打・飯田哲也を送る。

「(真中の)顔色が真っ青。どっちがピンチかわからないよ」というのが理由だった。

 これに対し、巨人・長嶋茂雄監督も動く。「向こうがフェイントをかけてきたから、こっちもかけましたよ」と左腕・柏田貴史に代えて、右腕・水野雄仁をマウンドに送った。

 飯田はフルカウントまで粘ったが、三振に倒れた。

 野球規則によれば、カウント1-2から投手が交代し、三振に打ち取った場合は、救援投手に奪三振が記録されることから(野球規則10.16)、水野に奪三振1がついた。

 一方、打者は、2ストライク後に代打が出て三振に倒れた場合は、前打者に三振が記録されることから(同10.15)、三振は真中についた。この結果、直接対戦していない者同士に記録がつく珍事となった。

 ヤクルトは直後の1死満塁で代打・大野雄次の内野ゴロの間に1点を返し、1点差まで詰め寄ったが、反撃もここまで。その裏、1点を追加した巨人が4対2で勝った。

 勝敗を大きく左右する重要局面を好継投でしのいだ長嶋監督は、試合後も「あそこは面白かったねえ」とご満悦だった。

 毎回の16与四球という大乱調にもかかわらず、完投で勝ち投手になるという“快挙”が達成されたのが、1994年7月1日の近鉄vs西武(西武)。

 近鉄の先発・野茂英雄は1回2死二、三塁から清原和博、パグリアルーロ、石毛宏典と3者連続四球で押し出しの2点を献上。立ち上がりから思いっきり不安定だった。

 2回にも2四球、7回には3四球と回が進んでも“四球病”が止まらず、9回1死二塁から3四球でまたもや押し出しの1点をプレゼントと、最後までピリッとしない。

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清原も「アイツらしいわ」