(1)文書は原則として公開しない。

 これまでの解説から、どうしてこうなるかは説明の必要はないだろう。

 面白い例としては、経産省で私が仕事をしていたころ、パソコンでワードを立ち上げると、白紙の文書ではなく、上の欄外に「機密性」という表示がデフォルトで打ち込まれた形で表示された。これは、この文書は、秘密保護の対象となる文書であることを示していて、無条件で開示されることはできないという意味である。

 つまり、文書は原則公開ではなく、全ての文書は、秘密文書として作成をはじめるわけだ。これを全面開示できる文書にするためには、上の欄外の「機密性」という表現を削除することが必要で、作成者に「本当に全面公開していいのか?」と問いかける仕組みになっている。「公開して問題が生じたら、君の責任だよ」という心理的歯止めをかけているのだ。

(2)公開する場合でも、黒塗り部分を多くする。

 これも、説明の必要はないだろう。危険物である公文書は、公開するとしても、可能な限り公開部分は少なくする。官僚のリスクを嫌う性癖ともあいまって、そこまでやるかというくらい、黒塗りを増やすのだ。その結果、よく国会などでも野党議員が「ノリ弁」と揶揄するような、真っ黒な文書となって公開されることになる。

(3)審査請求で負けない限り、余計な譲歩はしない。

 情報公開請求された文書について、不存在、不開示、一部不開示などの対応をすると、情報公開請求者から「審査請求」という形で不服申し立てが行われることがある。その場合各役所は、総務省の情報公開・個人情報保護審査会に諮問しなければならない。この審査会は第三者機関なので、いい加減な理由で不開示にしていると、それは不当だという答申が出されて、開示せざるを得ない状況になる可能性がある。しかし、審査会の審理が始まっても、諦めず、恥ずかしくても最後まで戦うのが原則である。これは、とにかく開示の範囲を狭くするという意味もあるし、後述する(6)の時間をかけるという意味もある。

(4)絶対に公開できない情報は、個人的なメモ扱いとし、公文書としては存在しないことにする。

 政治家からの圧力などについては、表に出ると大変なことになるので、そもそもそういう文書を公文書にすること自体が危険である。したがって、そのような文書は、秘密の公文書とするのではなく、公文書ではない扱いとして保存する。もちろん、役所として仕事に使うために保存しているのだから、本来は公文書であるが、あくまでも、個人が勝手に自分のためだけに保存しておいたものという「ことにする」のである。こうした文書は、開示請求をしても「不存在」という答えが返ってくる。万一、その存在がわかった場合も、「個人の備忘録」であって、公文書ではないという言い訳がなされる。愛媛県知事が、加計学園関係者と愛媛県、今治市の職員が柳瀬唯夫総理秘書官(当時)と面会していた記録を公表した時に使った言い訳もこれである。

(5)公開が避けられない公文書には、問題のない内容だけを記す。

 文書の中には、存在を隠すことができないものがある。例えば、近畿財務局の土地の売買契約に関する決裁文書などは、存在することが確実な文書である。また、正式に開催された審議会の議事録なども存在しないとは言えない。

 そこで、このような文書には、当たり障りのない内容だけを記録し、問題となりそうな内容は、削除するか、丸めて問題がないような書き方にして残すのが常である。したがって、審議会議事録は、ある意味、常に改ざんされていると考えた方が良い。

 森友学園関連で、近畿財務局や財務本省の理財局が、安倍昭恵夫人や政治家の名前を決裁文書に記録したのは、この原則から大きく逸脱したもので、役人としては大チョンボと言われる行動だ。もちろん、書いて残した本人は、それを承知のはずだから、現場では、いかにこの取引に対する不満が大きかったのかが想像される。

(6)公開する場合もなるべく時間をかけて出す。

 公文書の開示を求めてくる場合には、何らかの目的があるはずである。その場合、その目的となる行為を行うタイムリミットがあることも多い。例えば、記事を書きたい、本を出す時の資料にしたいなどという場合には、ある期日までにその情報が出てこなければ、記事化自体を諦めたり、その情報抜きで記事を構成するということになることもある。

次のページ
少しでも公開を遅らせた方が官僚には有利…