「どんなに良い知識や分析力があっても、それを選手に伝え納得させられなければ意味がない」というのがバヒンの持説。人として信頼され、その上で選手を説得するコミュニケーション能力こそが重要だと彼は説いた。そのような彼の資質は、自身も選手を目指していたが、家の事情もあり他の道を模索するしかなかった人生行路の中で、獲得したものかもしれない。

 彼のコーチとしての優れた手腕は、対戦相手の攻略法を立案し、自らラケットを手にその術を教え込める点にもある。先のマイアミオープンで大坂がセリーナ・ウィリアムズを破った時、いつもは饒舌なバヒンが、具体的な“セリーナ攻略法”については一切明かそうとしなかった。ただ、かつて家族同然の付き合いだったセリーナと敵対する側に座る、その「気まずさ」は包み隠さず白状する。

「あの試合で僕は、セリーナ陣営の目の前に座っていたんです。背後から、とても聞き慣れた声が『カモン、セリーナ』と叫んでいる中で、僕は『カモン、なおみ!』と叫んでいる……その居心地の悪さといったら、無かったですよ」

 その時の胃の痛むような心持ちを思い出したか、苦い笑いを浮かべる彼は、こうも言った。

「それでも試合が終わった時には、みんな『おめでとう』と言ってハグしてくれました。コート上では競い合っても、僕らの本質はアスリートです。相手がスポーツマンシップを示してくれたことを、とても嬉しく思います」

 若く活力に溢れ、勝利への策をしたたかに張り巡らせながらも、最後は相手陣営ともハグを交わす――爽やかな佇まいで歴代女王のナイト役を務めてきたこの男が、今は大坂なおみを、自らの手で女王に育てる意欲に燃える。(文・内田暁)