元巨人・篠塚利夫=1994年撮影 (c)朝日新聞社
元巨人・篠塚利夫=1994年撮影 (c)朝日新聞社

 各地でオープン戦も真っ盛りだが、懐かしいプロ野球のニュースも求める方も少なくない。こうした要望にお応えすべく、「プロ野球B級ニュース事件簿」シリーズ(日刊スポーツ出版)の著者であるライターの久保田龍雄氏に、80~90年代の“B級ニュース”を振り返ってもらった。今回は、「Vへの布石となったプレー&判定編」である。

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 1990年4月7日の開幕戦、ヤクルトvs巨人(東京ドーム)、ヤクルトは先発・内藤尚行の好投で8回表を終わって3対1とリード。敗色ムードが漂いはじめた巨人は、その裏2死二塁、2番・篠塚利夫がライトポール際へ飛球を放った。

 ファウルと思われたが、大里晴信一塁塁審は「迷ったが、ギリギリ、ポールを巻いて入ったと見えた」と本塁打をジャッジした。

 この判定に内藤は「なぜだ?」と言いたげに、思わずマウンドに両手をついてうずくまってしまった。一番近くで打球を見ていたライト・柳田浩一も「ポールから1メートルくらい右に落ちた」と証言。テレビ中継の再現VTRでも、打球はポールの外側に落ちたように見えた。

 しかし、「こっちから見て明らかにファウルじゃないか」というヤクルト・野村克也監督の抗議も受け入れられず、3対3の同点で試合再開。土壇場で息を吹き返した巨人は延長14回、山倉和博の押し出し四球で4対3とサヨナラ勝ちした。

 セ・リーグでは同年から審判4人制が導入され、外野の線審が廃止されたばかり。よりによって開幕戦でいきなり“疑惑の判定”が飛び出してしまったのは、何とも皮肉だった。

 開幕戦を制した勢いで4月を14勝5敗とロケットスタートに成功した巨人は、2位・広島に22ゲーム差をつけて、ぶっちぎりでV2を達成。野村ヤクルトの1年目は5位と明暗を分けた。

 筆者は後年、タレントに転身した内藤を取材する機会があった。内藤は「ファウルだと思って、『ああ、良かった』と安心した直後、大里さんが手を振っていたので、『何で?』とビックリした」そうだが、その後のコメントが印象深い。

「自分としては、(同点後も)11回までよく投げられたと思います。9回1死二塁で代打のルーキー・大森(剛)さんに打たれて、『サヨナラ(負け)だ』と覚悟した直後、(レフト)栗山(英樹)さんの超ファインプレーに助けられました。今でもあのビデオを見ると泣けます」

 あの日、「あんなことがあったら、絶対負けられない」とヤクルトナインが必死の思いで一丸となっていたことが如実にわかるエピソードである。

 そのヤクルトは、5年後の1995年4月8日の開幕第2戦(東京ドーム)で巨人に一矢報いる形となった。キーワードはまたしても新ルールである。

 前日の開幕戦で斎藤雅樹に3安打完封を喫したヤクルト打線は、この日も8回まで桑田真澄にわずか2安打に抑えられ、0対2と2試合連続完封負けが濃厚に。ところが、好投の桑田を、最終回に大きな落とし穴が待ち構えていた。先頭の飯田哲也に胸元をえぐるシュートを投じたところ、これが高くそれて頭部を直撃。危険球退場を宣告されたのだ。

「高く行っちゃった。避けてほしいところだったですね。退場?そんなの思わなかったですよ。ちょっと待てよ、という感じでした。あの場面で故意に(頭部を狙って)投げる投手がいますか?」(桑田)

 だが、前年5月11日の同カード(神宮)で死球の応酬を原因とする大乱闘が起きたことをきっかけに、「故意・過失を問わず、頭部死球を与えた投手は退場」とルールが変わっていた。

 そして、この危険球退場劇が眠っていたヤクルト打線に火をつける。2番手・橋本清から荒井幸雄の右越え二塁打と四球で無死満塁とすると、1死後、ミューレン。土橋勝征、真中満が3番手・石毛博史に3連続長短打を浴びせ、5対2とまさかの逆転勝ち。

 野村監督は「今日のヒーローは(危険球)ルールや。拾った勝ちやから、素直に喜べへんな」と渋い表情だったが、この1勝を機に4月を14勝5敗と大きく勝ち越したヤクルトは、巨人のV2を阻止して2年ぶりの日本一に輝いた。

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久保田龍雄

久保田龍雄

久保田龍雄/1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。

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