復活が期待される中日・松坂大輔 (c)朝日新聞社
復活が期待される中日・松坂大輔 (c)朝日新聞社

 2月1日にプロ野球12球団が一斉にキャンプイン。最初に話題をさらったのは、中日に新加入した“平成の怪物”松坂大輔だった。長引く右肩痛で懐疑的な声も多く上がっていた中、連日のブルペン入りでここまでは予想以上の“盛り上がり”を見せている。果たして復活はあり得るのか――。80年代以降の日本球界において「奇跡の復活」を果たした選手たちを振り返り、「歴史は繰り返す」ことに期待したい。

■村田兆治

 マサカリ投法と呼ばれたダイナミックな投球フォームでロッテのエースとして活躍した村田の右肘に1982年5月、激痛が走った。さまざまな治療法を試みたが一向に症状は改善されず、83年8月に渡米を決断。左腕の腱を右肘に移植する手術(トミー・ジョン手術)を受けた。

「利き腕にメスを入れた投手は再起不能」。当時はそう思われていたが、2年間にわたるリハビリの末に84年シーズン終盤に戦列復帰。そして翌85年の4月14日に1073日ぶりの復活勝利を挙げて“男泣き”。その後、日曜日の度に登板する「サンデー兆治」として開幕11連勝をマークし、最終的に17勝5敗の成績をマークした。村田は現役最終年となった90年にも2ケタ10勝をマーク。日本で「トミー・ジョン手術」が有効な治療法として認識されることになったという意味でも、非常に大きな復活劇だった。

■吉村禎章

 悲劇は突然起こった。1988年7月6日、札幌市円山球場。左翼の守備に就いていた吉村は打球を追って味方と激突し、左膝の靱帯3本が完全に断裂する「交通事故レベル」の大ケガを負った。

 “再起不能”とまで言われた中で長きに渡る療養生活を余儀なくされたが、厳しいリハビリを乗り越え、特注品のレガースとシューズも付け、89年9月2日に代打で約1年ぶり復帰。東京ドームは割れんばかりの大歓声に包まれた。そして翌90年は84試合に出場して打率.327、14本塁打、45打点をマーク。チームが優勝争いを続けた中、9月8日には自らの劇的なサヨナラ本塁打で見事にリーグ優勝を決めてみせた。その後も類まれな打撃センスを武器に、98年の引退まで巨人の代打の切り札として存在感を示し続けた。

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脳腫瘍から復活した「奇跡のリリーバー」